乳幼児期には父母などとのやりとりが多い方が、その後の思考機能の発達にその基盤づくりとして良いと書きました。

さて、既に幼児期の頃より多くの情報に曝されることになる現代、どのような教育が望ましいのかについて書きます。

まず、関わる情報が幼児期にふさわしいものであればよいのですが、テレビ、パソコンなどからひっきりなしといっていいほど入ってくる情報を区分することは難しいでしょう。

かといって、子どもたちに目の前にあるものに対して、適度という制限など出来ないでしょう。

情報が多くなることから一番問題となるのは、何かしらの判断、選択をするという思考機能の作業にあたって混乱のようなものが生じやすいということでしょう。

そこで一つの提案ですが、幼い頃より、ある程度、将来的な目標を与えるということはどうでしょう。

日本では、現在4月に新年度を迎えます。暦では1月1日が始まりですが、それは長年の習慣として基底感性化しています。最近では諸外国にあわせて9月から始まる制度に移行する、という考え方も出てきています。

満開の桜と背中に大きなランドセルを背負う子どもは、あまりに当たり前の喜ばしい光景です。

幼児期は、まずこの就学が一つの明らかな目標としてあります。

ところが現在、既に就学して暫くすると、滞りを持つ子が出てくるのです。具

体的では無いのでしょうが、何らかの希望を抱いて就学する子どもたちが、たった数か月という短い間にその希望を失い、滞りを覚えてしまうのです。

そこで、現在、入学時から次、という新しい目標づくりがあれば良いと考えてみました。

今、このような目標は、それがスポーツや芸術的な世界などを目標として考える子どもと、ほとんどそれらを考えない子どもとに分かれているようです。

それらを考えないまま、すぐにある期間の成果を比べる、という成績表が与えられてしまうのです。

ここである程度、格差付けが行われてしまうところから、それまで漠然とした希望を描いてきた子どもたちが、将来に対しての不安、疑問を持ってしまうのです。

ですから入学してから暫くのうちに、将来にわたる適正的な未来を与えていくということはどうでしょう。

適正といってもこの時点では、かなり大きな分類、たとえば何らかの人間社会に対する貢献性を考えられて、そこに至るための道筋などが、分りやすい指標を持てるようなものがあればと思います。

具体的な話として、東日本大震災の折り、自衛隊、警察、消防、医療、看護師さんなどとの関りを持った子どもたちが、将来に自分たちも、とその姿を重ねるように描いていく、というようなことです。もちろん経験、体験などはいつもあるわけではありませんから、想定的な世界の中での指標作りになります。

小学校低学年の頃は学期ごとの成績を求めるのではなく、少しでも将来に向かい進んでいけているかを重んじられるような制度作りはどうでしょう。

今、子どもたちには情報が大量化する中で、迷いという世界にどうしても関わります。できるならいつも未来に対して何らかの希望を与えてあげられればと考えます。