何年も子ども達と接するなかで
子ども達の
身体を伴った経験不足
を恐ろしく感じることがあります。
早ければ一年生の時から
ん?と思うことについて
少しまとめてみようと思います。
身体を伴った経験とは、
「もしかしてあのときのあのことを言っているのかな」とか、「△△をしたらこうなったから、この問題もその方法で考えてみたら答えが見つかるかもしれない」と思い出したり、振り返ることができる経験。
そもそもはコンサル勤務。
専業主婦/フリーランス労働をしなから
子育てを経て、
第二の人生は教育関係へ転職した
主婦と専門家の狭間のつぶやき。
内容が損か得かは読み手次第。
書きたいことだけを書いた自分の記録
そもそも疑問に思ったのは、算数のいくつかの単元を教える時に、非常に教える手間や苦労を伴う事が増えたと感じたからです
例えば、「位、進数、時間の計算」。
位や時間の計算は、二年生や三年生の単元なので、低学年からつまづきが見える子が増えたなと感じます。
今まで使っていた言葉や方法で教えても、「わかった!」という反応をしない子が、2~3人いるのです。
なんでだろうって、ずっと考えていたのだけれども
乳幼児期からの、理屈じゃない、身体を伴った経験をいっぱいしていない子が増えたんじゃないかと思うようになりました。
先ほどの位や時間や進数の単元では、溢れる・押し出されるという感覚がない子が増えたなと思っています。
位では、1,2,3,4,5,6,7,8,9まで来て、10になると次の10の位に進みます。
1の位の箱のなかには9までしか入らず、次の数の10になると箱から溢れて次の位へ押し出されちゃう感覚です。
これを小学校でも塾でも、教える所ではブロックやイラストも付けて教えるのですが、
"決められた数以外は あふれちゃう" という言葉が 分からない子がいます。
時計では、「60」という基準の数があって、分や秒は60を超えると次の時間へ進み、60を遡ると前の時間に戻ります。
この辺が何となくでも分からないと、6年生で進数になると、仕組みがちんぷんかんぷんで、手取り足取り問題を教えないと解けないこともあります。
この溢れるという経験は難しいものではないと思うのですが、
子どもが水やお茶を入れる時にコップから飲み物をこぼさないようあらかじめ対策や声かけをしたり、お風呂でお湯が浴槽からあふれ出るのを見たことがなかったり、砂やビーズやビー玉など何でも良いのですがマスから入れ物からあふれ出るような経験を、この子達はたくさんしたことがないんじゃないかなと、ふと思ったのです。
幼児期の教育は、概念を養うことが大切だと私は思っています。
1年生のはじめ。
たし算は「あわせていくつ?」「ふえるといくつ?」などと習います。
引き算は「減るといくつ?」「ちがいはいくつ?」などです。
計算式はその後。
まずは、問題に書かれたイメージを目の前に想像して問題を考えます。
ところが、
イメージが出来ずに、計算式を知りたがり、「あー引き算やったんか」などと、数の計算だけを追う子がとても増えました
問題文が正しく読めないのかと初めの頃は思いましたが、1年生くらいだとまだ理屈で合理的に考えられないと発達心理学では習いました。まだ言葉を追って読めなくてもいいんです。
だから、イメージだと思うのですが、そのイメージが出来ないじゃないか
これがまた、計算は出来るんです。
(ドリルとか、お家でもやってるんでしょうか。)
だから保護者は、今後の学習でわが子がつまづくかもしれない可能性を知ることはほとんどなく、このようなお話は、一部の保護者以外には伝わりません。言っても流される。
低学年なので、楽しく学んで欲しいと思うのですが、低学年から手間や時間のかかるフォローが必要な子が増えたなと思うようになりました
現在、共働きが増え、小さい頃から習い事にお金をかける家も増え、教育に関心も高いですが、高学年や中学受験後に学習困難になる子も増えていると感じます。
学習は現在システムが整っているので、その流れに乗ると小学生や中学生くらいまでは一定の学習分野で乗り切ることができます。
なので、気づきも遅くなり、原因が幼児期や小学生の頃にあるとは気づきません。
実は身体を伴った経験の不足があることもあるのだけれど。
進学校の生徒が、幼稚な遊びをしている現場に出くわすこともよくあります。
しょーもな 小学生か というやつとか。
あれも体を伴った経験不足を埋めてんのかなぁ。