記紀によって神代史がゆがめられたとしたら、では何によって真実を探せばよいでしょう。


例えば秦の始皇帝がそうしたように


自家の歴史を正当化し、諸説を殺すための方法に焚書坑儒があります。


都合の悪い歴史や思想を記した書物をすべて焼き払い、始皇帝の場合は


あらゆる儒家を捕まえ、生き埋めにすることによって歴史思想を一本化しようとした。


これが日本書紀編纂の際にも行われたのです。


天武天皇の言葉に諸家の持つ帝紀旧辞の誤りを正すという日本書紀編纂の意義があり、


持統天皇によって石上神宮(いそのかみじんぐう)や大神神社(おおみわじんじゃ)の古文書や


佐伯氏、大友氏、上毛野氏など有力豪族16氏の系図などが取り上げられました。


元明天皇の時代に禁書を持って山に逃げ込んだものの罪を投降すれば許すといった恩赦も出されていますから


これらはかなり徹底して行われたものと思われます。


中でも石上神宮、大神神社は物部氏の祖神を祀る神社で、


この二社の持つ歴史がいかに朝廷にとって邪魔であったのかがわかります。


しかし、社伝を奪われたのは巨大であったその二社であり、


また文書が奪われても口碑は残ります。


大きな柱は奪われても、その柱を支える支柱から柱の存在は見えてくるのです。


つまり、今に残る神社の社伝、


それも記紀成立以前の創建になる神社の社伝を追っていけば


記紀とは違う視点から我が国の成り立ちが見えてくるはずです。

 


 

そこでひとつ注目すべきものがあります。


天皇と天王。


てんのうとは日本の頂点に立つ王様の称号です。


しかし、字は違いますが同じてんのうを称する神様がいます。


牛頭天王(ごずてんのう)。


この牛頭天王を祀る天王社の総本社が三重県津島市にある津島神社。


ここの祭神は建速須佐之男命=素戔嗚命(スサノヲノミコト)です。


社伝によると欽明天皇の時代に神社が創建され、


平安時代の嵯峨天皇によりスサノヲのことを皇国の本主なりと呼び、


神社を日本総社とされました。


そして一条天皇から天王社の称号を与えられたとあります。


大事なところは嵯峨天皇からスサノヲノミコトが皇国の本主と呼ばれたことです。


どういうことかというと


常識からいうと、皇祖神は天照大神でなければいけません。


天皇家の初代神武はさかのぼるとアマテラスの系譜であり、


アマテラスは孫のニニギノミコトに葦原の中つ国を統治させるために


大国主に国譲りをさせたのです。


そのオオクニヌシノミコトの義理の親、もしくは数代前の祖先にあたるのが


スサノヲ。


この国譲りはどこまでのものかわかりませんが、


豊かな葦原の中つ国を見た高天原の連中がアマテラスの子孫こそが治める国だとして


大国主に全面降伏を呼びかけるのですが、


温和なオオクニヌシは子供たちに判断を任せるといい、


長男の事代主(コトシロヌシ)は承諾して入水したが、次男の建御名方(タケミナカタ)承諾せず、


使者である建御雷神(タケミカズチノカミ)と争うが負け、諏訪湖まで追い詰められて降参する。


これによりオオクニヌシは自分たちの社を作ってもらう事を条件に降伏するのです。


長くなりましたが、


要するに正当な統治権を主張するなら、なにも被征服側の権利を認めなくても良いはず。


嵯峨天皇が皇国の本主とスサノヲを呼ぶ理由は


天皇家が実は武力で統治権を勝ち得たのではないことに由来していると考えて良いでしょう。


とすれば


まず、この国はスサノヲの系譜にあるものが出雲と


少なくとも中国、近畿、北陸、東海地方を統治していたとの認識にたって良いと思われます。


そう、この中国地方という言葉も曲者です。


秀吉の中国大返しという言葉もありますから戦国時代にはその呼称は定着していたと思われますが、


なぜ中国というのか不明でした。


九州も不思議ですよね。


筑紫国、肥国、豊国、日向国、薩摩国の五か国なのに。


でも中国は中つ国と呼べば簡単に解けます。


山陰山陽合わせて大国主の領域である葦原の中つ国であった、その記憶が生きて


中国地方と呼ばせている、と考えればスムーズに理解できます。


 

天皇家は記紀において語るように、このあと高千穂に天孫降臨し、


しかるのち神武の代になってはじめて中つ国の領域を長い時間をかけて横切り


やがてナガスネヒコの抵抗の後、熊野から上陸し大和盆地に侵入することになります。


この神武の東征の際、河内にたどりついた神武は


ナガスネヒコと相対し、その際に神武より先にこの地方に降臨した神がいて


その神に妹を嫁がせ臣従していることを告げられます。


そこで神武はナガスネに天孫の証明として弓矢を入れる道具を見せます。


すると臣従しているニギハヤヒが持っているものと同じなので、天孫であることは認めますが、


当然降伏することを認めません。


ところがニギハヤヒは神武を受け入れても良いといいます。


そこで神武対ナガスネの戦いが起こるのですが、


その地が日の下クサカ。(ひのもとくさか)


実に今の日本の国名のもとになった地名です。


ここにも出てきますが、この日の下を納めていたのがニギハヤヒ。


スサノヲの息子たる天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊の事なのです。


天皇家が大和に入る前の王が


スサノヲの系譜だったのです。

さあ、その日本書紀では

いったい何を消し去ろうとし、何を残そうとしたのか。


もちろん残そうとしたものは

天智天皇の娘である持統天皇の正当性であり、

その側近として仕えた藤原不比等の正当性です。


そしてそれを残すために消されたものがなんなのか、

そこが大切なポイントとなってきます。

 

そこでひとつ思い出していただきたいのですが、

万葉集のなかに一人のヒロイン

額田王という女性が出てきます。


もともとは天武天皇の妻だったはずの彼女が

天智天皇の妃の一人となった。


その運命に翻弄された女性、額田王。


その名前はぬかだのおおきみと呼ばれていますが、

つまりは皇族の一人であったわけです。


諸説ありますが、采女(うねめ)であったとする考え方もあり

今一つさだかではありません。


それというのも

額田王が日本書紀には現れないからです。


最初の夫天武天皇との間に生まれた十市皇女(とおちのひめみこ)は

異母兄である大友皇子(おおとものみこ)のもとに嫁ぎ、

天智天皇の死後、弘文天皇として即位した近江王朝の大友皇子の正妃となります。


このころはまだ皇后の位は皇族でなければ受けられず、

皇族の中でも正統に近い人物でなければなれませんでした。


十市皇女は天武天皇(大海皇子)が父親なので確かに正妃にはふさわしいかもしれませんが、

母親の地位が低ければ正妃とはなれません。


ちなみに彼女の夫である大友皇子の母親は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ やかこのいらつめ)と言い、

采女とは地方豪族が王宮の女官に差し出した娘などのことを言いますから、

江戸時代の話に置き換えると腰元みたいな地位の女性です。


これでは正統性に難ありで、実際このために近江王朝を支持せず

反乱側である大海が支持された部分も大いにあるようです。


大友皇子の出自は異例であるにせよ、十市はさにあらず。


ある説によると母親の額田王も采女であるかのようにうたうものもありますが、

本来、王、皇子、皇女などという呼称は皇室の、しかも正統に近い皇族の位をあらわすもので、

決して采女などが名乗れるものではありません。


確か官職名を自称で使う例は平安後期の白拍子や遊び女などからだった思います。


つまり、

額田王は大海皇子、中大兄皇子二人に嫁ぎ、皇后クラスの存在だった。


しかし、中大兄の娘である持統天皇にとって額田は自分の母親より高位であってはならず、

しかも大海皇子の妻たる自分よりも高位であってはならない存在だった。


ちなみに持統の祖父は蘇我倉山田石川麻呂(そがの くらやまだ いしかわまろ)で、

母親は天智天武系の皇族ではない可能性が大なのです。


そうして額田王は日本書紀から、歴史から排除された。

 

ところがである、

万葉集には生きていた。


持統天皇は天武天皇と相思相愛で固く結ばれていた。


そう思わせなければならないはずなのに

万葉集には持統を思う天武の歌は無い。


かわりにあるのは

人目を忍んで歌を交わす人妻「額田王」とその前の夫「大海皇子」の歌。


幸いにも、持統天皇の時代においてこの歌集が持統の目に触れなかったのは明らかだ。


なぜなら日本書紀にあまた登場する皇族が万葉集に歌を残し、

一人額田だけが書記に名を残さない。


持統と不比等の目の届かないところでこの歌集が編纂され、

後世の我々に歴史を解き明かす種を残してくれているのだ。


その額田が書記から消された理由のもうひとつに

物部系の皇族だから、というのがある。


物部系?で皇族?


この物部氏はもしかすると日本古代史の謎の半分を占めるくらいの氏族で

巨大なテーマです。


高校生程度の知識でいうと

蘇我氏との間で崇仏論争がおこり、丁未の乱(ていびのらん)で廃仏派の物部守屋(もののべの もりや)が滅ぶまでは

大和朝廷の大連(おおむらじ)という有力氏族でそれまでは大伴氏とともに朝廷の権力を二分して支えていたのが物部氏でした。


なかでも物部麁鹿火(もののべのあらかい)は磐井の乱を鎮圧した武将的な豪族で、物部氏が宗教的な支配と軍事力の両方を握っていたことがよくわかります。


その物部氏の先祖がニギハヤヒで、神武天皇よりも先に九州から物部氏十部族を率いて大和に降り立ったとされています。


これは芹田、二田、疋田や十市など物部系地名が北九州と大阪湾岸で一致することからも何らかの記憶の名残であることがうかがわれます。


しかし、その盟主的存在のニギハヤヒがスサノヲの子であるとするとどうなるか。

物部氏の移動は単に北部九州から河内への移動にとどまらず、さらにその先に出雲から北九州の移動が前提になってきます。


なぜなら、スサノヲこそ出雲の王だからです。


一般的な言い伝えで

十月は神無月。


出雲地方では神有月というそうです。


年末近くになると神様たちが出雲に集結する。


そこは北部九州でも大和でもない。


出雲に。


神様に位があるとしましょう。


当然、出雲の神様が一番偉いと言わざるを得ない。


ではその中で

明確に出雲の神様と言われているのはだれか。

最初の王となるのはスサノヲ。


そしてその娘婿のようだったり、5世の孫だったりして継いでいるのがオオクニヌシ。

そしてその子供たち。


やがてアマテラスの要求でこのオオクニヌシたちは国譲りをさせられてしまうのですが、

スサノヲが統治をはじめてからここまでの間は神有月の出雲。

 

出雲が日本の盟主だったのです。


そして具体的にその出自が書記では語られないニギハヤヒ。

 

彼もまた出雲王スサノヲの子にして河内王でした。

 

この痕跡も書記に消されまくっていますが、


実はこのニギハヤヒが本来伊勢神宮に祀られているアマテラスの真の正体だと思われるのです。


というのもニギハヤヒの本名は

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと

と言いますが、対する今アマテラスと呼ばれている神様の本名は

大日霎貴(おおひるめのむち)といいます。


つまりは太陽に使える巫女。


日本書紀から天照大神(アマテラスオオミカミ)と呼ばれるようになるわけですが、

後付けの名前。

とまり両方の神格を合わせて正体をわからなくしてしまったんですね。


つまりはこれも日本書紀によってゆがめられた事実なのです。


では整理してみましょう。

 

日本の歴史はどこまでさかのぼって正しいといえるか。

 

考古学的見地から

出土物などで正史の裏付けがされているのは

続日本紀あたりから。

このあと六国史が政府発行の歴史書として奈良時代から平安へと続き、

一度正史は断絶するものの

貴族の日記がそれを補強するようになっていきます。

 

ということは

まあまあ奈良時代以降は

教科書に載っていることは信ぴょう性があるということになります。

ただし、見えていない地方史や反体制側の歴史というのがありますが。

いわゆるまつろわぬもの=蝦夷(えみし)や隼人、土蜘蛛とよばれる人たちの歴史です。

 

ひとまずそんな地方史を置いておきます。

 

問題は中央ですが。

 

昨日の番組で出雲大社のお話が出ていました。

昔の出雲大社は地上48メートルで世界最高のたてものだった。

というお話です。

それの傍証のように荒神谷遺跡から出土した三百数十本の銅剣や加茂岩倉遺跡から出土した

大量の銅鐸から出雲に巨大な勢力が存在していたことがあげられていましたが、

これは出雲大社とはつながりません。

出雲大社ができたのは

少なくとも大国主命をまつる出雲大社ができたのは日本書紀成立以降のことなのです。

そして驚くなかれ、伊勢神宮もまた然り。

本来始祖を祀るはずの神社で、国譲りをして出雲を高天原に明け渡した敗者の大国主命を祀る出雲大社。

負けたもののたたりを恐れて神として祀る魂しずめとしてまつるのはよくあることですが、

これを日本一の社にするのはどうも不思議な話です。

ついでに伊勢神宮は皇室の祖神であり、日本神話の最高神となる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀るのに大和朝廷の始源期にすでに皇居から外に出され、宮処が定まらず流浪の末に現在の伊勢にたどりついたのです。

なぜ皇祖神を都からはなれた彼方に追いやったのでしょうか?

すべて日本書紀の成立からはじまったことなのです。

その日本書紀完成のフィクサーこそ

藤原不比等。

ふじわらのふひと自身は歴史に編纂者として名を遺していませんが

彼は壬申の乱で天武天皇に対抗した天智天皇の後継者大友皇子の近江朝側の人間で

朝廷をおわれているはずでした。

その彼が

天武天皇の死後、後継者となった皇后持統天皇の側近としてゾンビのごとくよみがえり、

そして寄り添い、

ついにはその後数百年続く藤原氏の時代の礎を築いたのでした。

つまり、天武天皇の時代に始まった国史の編纂事業は天皇の死後も続いており、

当然あとを継いだ持統天皇の側近だった不比等がその事業を総覧していたのは間違いないのです。

そして歴史書を編纂するのは客観的な作業とはならず、

編纂側に有利な情報のみを残す、または整理するとの名のもとに歪曲することも可能となる。

当然、

無理やりにでも天武のあまたいる皇子のなかでも自分のおなかを痛めた子だけを即位させたい持統天皇に

都合の良い歴史を作ること、

壬申の乱で敗者となった大友の皇子の父天智天皇とその側近だった中臣鎌足を悪者にしないこと、

勝者天武王朝にとっての客観的記述ではそうはなりえない記述がなされることで

藤原不比等の影響力が証明されます。

そして藤原不比等のその名前。

不比等は史人(ふひと)。つまり歴史をつかさどるという名前なのです。

 

なんとなくわかってきましたでしょうか?

ずばり、藤原氏にとって都合の悪いことを書き換え、都合の良いことを時間をかけて作り上げ、

アリバイ作りに出雲大社や伊勢神宮などその後の日本人の心のよりどころとなる神道の形を作り替えて

今の形にしてしまったのが

不比等による日本書紀なのです。



もともと

諸家に伝わる伝承に誤りがある。このあやまりを訂正してのちの世に伝えなければならないといって始まったのが書記の編纂です。

しかし、これに先立って国記と天皇紀があったはずです。

しかしそれは蘇我氏の滅亡とともに焼滅した。

そころが書記には帝紀、旧辞というネタがでてくる。

しかもある書にいわくとネタ本がぞろぞろ出てくるし、なかには日本国紀という書名まで出てきます。


さあさあ面白くなってきたぞ。