さて、今年平成24年の6月に

全国の新聞紙上において、九州大宰府で最古の木簡が発見されたとの報道がありました。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG12031_S2A610C1CR8000/

最古かどうかはこれから先もどんな発掘が全国であるかわかりませんから

そんなに重要ではありませんが

ここでは「評」(こおり)という行政区分名が出てきたことが重要です。

ご存知のように日本で最初の法律とよばれる大宝律令では国郡里制を採用しているので、

大宝律令下のものではない。

ここで客観的にわかることは西暦700年以前に評という行政区分が九州に存在していた、

ということです。

この評。

日本書紀の中でも顔を出す言葉なので、以前施行されていた評などの行政区分を

大宝律令の制定にともなって再編成して郡になおしたのではないかという学者の説が一般的になっていますが、

そんなことは日本書紀には書かれていません。

実際の大宝律令全文が出てくればシロクロつけられるのですが、

この時点では学者の説は仮説のひとつでしかありません。

仮説のひとつであれば、

古田史学のひとつである、評とは大和朝廷が支配する以前の東鯷国(とうていこく)の行政区分ではないのかという説もあげられます。

そこから導き出せるのは、今回の発表で

大和朝廷以外の国家が使っていた行政区分ではないか、

もっとつきつめると

九州王朝の行政区分だったのではないかと言えるのです。
 
今回の発表でその思いを強くしていた矢先、

偶然にしてある先生の小論文に出会いました。

川端俊一郎先生です。



その川端俊一郎先生の意見も所謂九州王朝説です。

この先生は我が北海学園大学の経済学部の教授でありながら、

建築学の造詣が深く、また古代の日韓中外交史にも持論をお持ちであるという

異色の先生で、

その論文に法隆寺における中国南朝尺使用から

ずばり九州王朝説を展開するものがあります。

基本的には古田史学に近いものがあるように感じられますが、

アプローチの手法は少し違うようです。

しかし、既存の歴史学者や教科書が目をそむけている

中国、韓国の文献を丹念にひろい、日本書紀の隠しているものを

あぶりだしていく手法は軌を一にするものがあります。


川端先生の論で新たに認識したのは

大宰府とは何か、ということですが、

単純な地名で無い事は理解して下さい。

府とは何かと云うと、特定の官職にあるものがつかさどる統治機関のことで、

この大宰府とは王を助けて国を治める人の官職である太宰に就いた人が長官の役所、

統治機関であるということです。

この大宰府は代々中国南朝に存在する機関でした。

倭国はこの中国南朝と冊封関係にあり、その将軍もしくは大将軍の役職を自称または

実際に与えられていました。

その南朝配下の将軍である倭国王が南朝の出先機関として都督府をたてていましたが、

南朝が北朝の隋に滅ぼされたことによって独立したと判断し、それまでの都督府から

大宰府と自らの統治機関を名乗る事になったのです。



僕の個人的な見解では。

邪馬台国に一大率という官職名が出てきます。

その一大とは同じ倭人伝にでてくる一大国のことで、全国を畏怖させたという

一大率とは壱岐国から九州北部に侵入した軍事、もしくは政治勢力かと考えています。

そしてその一大率が太宰の帥となり大宰府に受け継がれたもの、と想像していました。

つまり前回登場した大倭(だいい)は外交交易の役職で、

一大率(いたのそち?)は内政の機関であると。

しかし、すると倭王の都督府とその存在がバッティングしてしまうのでした。

一大率は置いておいて、川端先生の大宰府論だと、都督府と大宰府の関係性が

すんなりとしてきました。

 
まず、教科書にある、

なんでも大和朝廷=奈良・大阪に結びつける考え方は忘れて、原文にある事実関係だけをとどめおいてください。

中国の歴史書に、最初に通じてきた倭国は

漢倭奴国で、

初めて冊封関係になり、金印をもらいます。

次に登場する卑弥呼の時代、その国は魏に使いを送り、

魏は使いをその国に送ってきました。

魏は親魏倭王の称号と金印を卑弥呼に与え、倭国内の抗争に対して卑弥呼の支持にまわりました。

その後は魏が晋に取って代わられ、中国国内は南北朝時代に入ります。

北朝はいわゆる匈奴系の国とみなされ、

それぞれ易姓革命を繰り返しながらも、南朝が漢族の正統な王朝であるとみなされていました。

そして倭の五王時代、

朝鮮半島での覇権をめぐる戦いに倭国も強くかかわっており、

戦いと親交を繰り返す混沌の時代に入っていました。

教科書は多くを語りませんが、

好太王碑文は事実を語ります。

新羅王家とは血筋につながりがあったり、新羅の重臣に倭国出身のものがいたり、

最終的に朝鮮半島の拠点となる任那(みまな)と呼ばれる加耶諸国を新羅、百済両国に奪われますが、

尋常ではないつながりと抗争のなかにありました。

だから五王たちは戦いの先陣に立ち、

戦いで命を落とし、

そして力だけではなく、その権威を求めて自らの先祖達が行った冊封関係をより前進させるために

南朝へ朝鮮半島を支配する将軍職を求めて朝貢しました。

当然、対抗する百済や高句麗もです。

その結果得られたのが倭王武の使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王
という称号でした。

このなかに百済がはいっていないのは百済は自立した王として南朝の宋に認められていたからです。

この動きのなかで倭国は都督府をたてたわけです。

そして南朝の崩壊とともに大宰府とした。



全国に旧国府あとが遺構や地名として残っていますが、

この大宰府のある筑紫と多賀城のある陸奥のみが

独立した国府を持っていません。

それぞれが国府としての機能を負っていたからです。

ただ、筑紫は国府を別に立てた記録がありますが、まったく存続しませんでした。

 
さあ、これらの話から何が見えてきますか。

すべては漢倭奴国からはじまっていますね。

そしてその金印が江戸時代に福岡の志賀島で発掘され現存しているという奇跡。


中国の歴史書は一貫して倭国をこの倭奴国を引き継いだ国として記載しています。

その中に出てくる金印が志賀島から出土した以上、

倭国は大和朝廷ではありえないといえるでしょう。

大切な宝物をそんなところに埋めますか?

ちなみに聖武天皇の御物を収めているのは東大寺の正倉院ですね。

また、大和朝廷の武器を収めていたのは石上神宮です。
 
 
 
そんな中国の歴史書から倭国が消え、日本国にバトンタッチすることになるのが
新唐書、旧唐書の記述からです。

教科書が絶対に載せないポイントですね。

この時期に何があったのか、

磐井の反乱、日出天子、聖徳太子、白村江の戦いが次のキーワードです。


記事中、一大率を一大宰と強引に書いちゃいましたので、訂正しました。
およそ今の日本に統一されたのは文武天皇の頃からではないかとの説があります。

それは前稿でも書きましたが、九州王朝が日本の王者であり続けたからです。

すなわち、九州王朝が倭国。大和朝廷は日本。

日本の国名のもととなったのは大阪府にある草加です。

そこは昔巨大な入り江だった大阪平野の東岸にあって、

河内湾ともいうべきその入り江の入り口からそこを望むと

まさに日の下(ひのもと)。

飛ぶ鳥の明日香と同じようにその地は日の下草加と呼ばれ、やがて日下でくさかと読まれるようになります。

つまり、大阪が日の下、日本だったのです。

この地は出雲の勢力と北九州の物部勢力によって作られた国でしたが、

やがて神武の東征によって次第に物部宗家以外の勢力は東に追いやられ、

出雲は神として祀られる事によって徐々に大和朝廷が形作られていくことになります。

考古学的には近畿周辺で流行した銅鐸がある時全て壊され地中に埋められている事実があり、

それは西は岡山、四国の東半分、東は東海地方までにおよぶ銅鐸文化圏が

それを否定する勢力に駆逐された事実を反映しているのです。

つまり、神武の東征の証拠。

一大勢力だった銅鐸文化圏が大和朝廷の土台でない事は続日本紀で近江で発掘されたいにしえの宝鐸が登場し、

それが何なのかわからないという記事からもうかがい知れる事です。

銅鐸の国日下がはじめにありき。

倭の血を受け継ぐ神武がそれを奪ってできた大和朝廷。

当然本家として優位に立つ九州王朝の倭国。

最後に倭国を奪った大和朝廷が書けない歴史です。

しかし、記紀から漏れ出る片鱗からうかがい知れる事なのです。

今日の最後にヤマトタケルのお話をしましょう。

古田学説に立脚したお話ですが。

ヤマトタケルはもともとヤマトオグナという名前でした。

それが父である景行天皇の命で単身、熊襲征伐に向かい、

女装してクマソタケルの兄弟のそばに潜入することに成功したヤマトオグナは

最後にクマソタケルを刺殺する事に成功しました。

今わの際でクマソタケルは自分の暗殺に成功したヤマトオグナをほめ、

タケルと名乗るよう命じます。

そしてその日からオグナはヤマトタケルになるのです。

ここまでは手塚治虫の火の鳥にも描かれる有名な英雄伝説です。

しかし、子供のころに読んだときはすんなりと受け入れるだけでしたが、

今は違います。

問題が大アリ。

まず真っ先に上がる疑問は命名権者。

暗殺とは言え討伐対象の賊であるクマソタケルがタケルを名乗れと言います。

その名をヤマトオグナは名乗ります。

父である景行天皇の許しを受けたのでしょうか?

いや、それよりも犯罪者から付けられた名前を名乗るでしょうか?

あり得ない話です。

そこで考えられる事は

「タケル」という名前が一つの称号的かつ象徴的な名前で自分の格をあげるものであった。

いや、それにしても反逆者から命名されるのは大きなお世話です。

何もクマソタケルに許されたから名乗ったという逸話を残さずにもっと適当な

例えば景行天皇から猛々しい皇子であることから命名されたとでも言えば良いはずです。

しかしそうではない。

名前を命名すべき人とはどんな人でしょう。

まずは親。

そして武士なら主君。

いずれも上位者以外ありえません。

もうおわかりでしょうか。

ヤマトタケルの熊襲征伐とは

軍隊を送って正面きっての戦争ができない相手で、

しかも称号を与える事ができる

すくなくともヤマトタケルよりも上位に立つ者を

暗殺した話です。

それは九州に勢力をもっている大和朝廷の上位者。

九州王朝の王者、倭国王以外にありえないのです。

さてそろそろ今日のお話の最後にしますが、

先ほど飛ぶ鳥の明日香、日の下草加のお話をしましたが、

日本語の地名や人名の漢字表記には本来の読みとはかけ離れたものがあります。

飛鳥や日下、長谷などがその代表ですが、

みなさんはもっと多く目にしていながら疑問に感じなかったものはありませんか。

それが

大和です。

やまと

本来は山野辺をあらわす日本が地名になったものと考えられますが、

なぜだいわと書くのでしょうか。

これは私の推論ですが、

恐らく大和朝廷が九州王朝より優位に立つ事ができた時、

諸国、諸豪族に対して自分の国の名前を

大倭なる山門と称したのではないでしょうか。

飛鳥も日下もその文字は地名を形容する言葉です。

では大倭とは何か。

魏志倭人伝に初めて出てくる言葉ですが、

市場や交易を監察する役職として使大倭というものが出てきます。

王ではありませんが

今の外務省と経産省を合わせた部署の長官のようです。

しかも倭の文字を使っている。

恐らくは邪馬台国の枠を超え、鉄をはじめとする交易品を欲する

日本のすべての国の窓口だったのでしょう。

だから大倭。

多分、まだ九州王朝が存在してる時代、しかしその力が衰えた時。

白村江の戦い以後、

王者ではないが外国に向けた日本全体の窓口であることを知らしめるために

大倭なるやまと。

大和朝廷はそう名乗りをあげたのではないでしょうか。
 
次回は木簡発見から考察される九州王朝の最期。

キーワードは大宰府です。
福岡で戸籍の木簡発見のニュースが流れて、はや一週間がすぎました。

これは大きいニュースです。

どうもせつな的なこの準備室ですが、

ここでこれまでの物部論からちょっと離れて整理したいと思います。


私が何を伝えたいのか。

できれば書こうと思っている「神々の時代(とき)」という小説、

その結論を先に述べましょう。

日本の歴史は大和朝廷だけのものではない。

例えば神話の世界も

出雲から始まります。

そこは葦原の中つ国と呼ばれる世界。

そして舞台はほんの少し北九州や高千穂へ移ります。

そこは高天原と呼ばれる世界。

そして大和にたどり着くのです。

神々の時代は大和が主ではなかった。

例えば神無月、全国の神は出雲に集う為、地元からいなくなります。

たったこれだけのことですが

参勤交代を思い出して下さい。

江戸に集まる大名。

主従の在り方に変わりはありません。

出雲では神在り月。

出雲が日本を代表していた時代があったのです。

そして国譲り。

高天原の神々が出雲の神々に国譲りを求めます。

大国主が国譲りをしたあと、高天原の神々が出雲に下ったという話はありません。

ここで譲ったのは日本の代表権でしょう。

出雲は日本海を隔てた朝鮮半島とのつながり、そして鉄資源で強国となりました。

それよりも縄文の昔から黒曜石の産地として沿海州からも人の集まる地域でした。

だから強大な力を誇ったのが、やがて出雲より朝鮮半島に近く

もっと大量に鉄資源を手に入れられ、そのせめぎ合いの中で武力を磨いていった

北九州勢力にとってかわられたのでした。

そして神武の東征。

舞台は河内、大和に移ります。

この神武たちはけっして日本の代表ではありません。

彼らは兄弟で十余年をかけて東をめざしますが、

そんな長い間、国の統治を放っておく王はいません。

彼らは国ごと移動したわけではなく、

高天原からはずれた勢力だったのです。

高天原は有り続けなければならない。

大和に入り込んだ神武たちは

しかし、大和の近辺しか支配していない。

決して大和に入れた事で日本全国を支配したわけではないのです。

では高天原はどうなったか。

九州の王国は綿々と受け継がれ、中国には倭国と呼ばれます。

その倭国こそ高天原。

先祖を同じくする大和もやがて少しずつ力をつけていきます。

やがて日本書紀に筑紫の君磐井の反乱と記される事件が起きます。

磐井が起こした反乱を鎮める為に

継体天皇と物部物部麁鹿火が筑紫に向かうのですが、

この時、物部麁鹿火に向かって継体天皇は

「筑紫より西はお前が取れ。長門より東は朕が取る。」と云いました。

自分の領土内で起こった反乱とは思えない言葉。

どう考えても侵略者の言葉です。

また攻められた筑紫の君磐井も不思議な事に本拠地で戦う事になりますが、

攻める気満々の敵を自分の本拠地に来るまで何もしない反乱者がいるでしょうか。

まずはできるだけ自分の領域の外に出て戦うはずです。

つまり、なんらかの軍事行動の必要があるため

共同で戦うはずだった磐井軍と継体軍。

この継体軍が筑紫に到着してから裏切りを行った、そうとしか考えられないのです。

しかも、その言葉通り筑紫の地は物部麁鹿火のものとはならず、

磐井の子供の葛子が後を継ぎます。

この時期の朝鮮の歴史書には

日本の天皇とその子供が急死したと書かれていますが、

継体天皇が子供と一緒に死んだ事実はありません。

おそらく、磐井とその嫡子が戦死した事実の事でしょう。

このあと中国は隋、唐の時代になり、有名な隋書倭国伝の記述がでてきます。

とうてい聖徳太子とは思われない日いずるところの天子、多利思比孤。

実際には俀国伝であり、多利思北孤なのですが。

この記述のあと九州の王朝は次の唐の時代まで消えます。

そして新唐書、旧唐書。

この間、大和朝廷が筑紫を攻めた事実はありません。

しかし、あの白村江の戦いが起こるのです。

この時、九州王朝の王は

倭の五王の時代からの伝統通り、前軍の先頭に立って戦っていた事でしょう。

そして大和の軍隊は後軍にあって戦いを見守っていたのです。

そして日本軍は敗退します。

多分、後軍の大和軍は前軍、中軍を助けることなく引き揚げたものと思われます。

この戦いでは日本国中から兵士が参加しています。

それは数名の捕虜となった兵士たちが戦後帰国した時の記録からわかります。

しかし、そこには近畿地方の兵士はいなかったのです。

そして帰ってきた捕虜の中に筑紫の君の名前がありました。

あの磐井の子孫。

九州王朝の王者であるはずの人物です。

このころに日本は九州王朝を抱え込んではじめて本当の日本となるのです。