埼玉県 比企城館跡群 杉山城跡 菅谷館跡 | おふくのブログ

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気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。

少し遠出する埼玉方面で、あまり人混みもなく私の脚でも苦にならず歩けて、ちょっと面白い場所はないかと、地図を片手に探していて見つけたのが、杉山城跡。マップで調べ、写真や口コミを見たら、わりと平坦で、建物は残ってないけれど、いかにも山城の地形を残す、興味深い史跡とあり、面白そうだなあと思い、ちょっと前の週末に行ってみることにしました。

場所は、埼玉県比企郡嵐山町、高校の正門から入っていくと口コミにもありましたが、まさにそうで、学校の敷地内が経路になっていました。入り口脇の駐車場にあった案内板を拡大したのがこちらです。

山城ということですが、なだらかな坂を登って、大手口に入っていくと、ぼこぼことしたこんな風景の城跡がありました。。
この写真の前方に進まず左に進んでしまった。一応、本郭を目指していたのですが、、、

こちらに来てみたけれど、本郭ではなく、前に見えるぼこんとした土塁の上、あちら側が本郭!続いてると思ってたのに続いてなかった。先ほどの道を真っ直ぐ進めば良かったのですが。さて、目の前にあるのに、そこに行くには土塁になっていて堀があるから行けません。すぐ目の前なんだけどな、棒高跳びの長い棒でもついて、あちら側に跳びこんだら届くかな、堀の部分に降りるのはかなり急勾配で無理、これ、敵が攻めてきても、土塁の上から下でもたつく敵を攻撃できるようになってるんだろなぁって、実際にそこにいて実感しました。

結局、もと来た道をぐるっと戻り、先ほどの道を真っ直ぐに進んで本郭に上がりました。石碑と説明書き看板がありました。

とにかく、あちこちぼこぼこの土塁だらけでした。

上から見おろすと、大手口から一本道で、敵が侵入しても攻めこみずらくて、また、城跡の反対側は広く山の斜面になっていて、城は小高い山の上にあるわけで、敵が攻めこみずらく、よく考えてできてるんだなと思いました。この時代山城は、石垣がある美しい城ではなく、戦いに特化した要塞だったのだと思いました。

パンフレットをいただきましたが、そこに居るとよくわからないけど、上空写真だと、この場所が山城の地形をしているのがよく分かります。戦国時代のはじめ15世紀頃、関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による抗争があったそうで、杉山城は、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城されたものと発掘調査でわかってきたそうです。


この杉山城跡探訪が楽しかったので、パンフレットの中にあった比企城館跡群地図を見て、菅谷館跡というのが目に入り、またマップで口コミを見て、歩くのに楽しそうだったので、次の週末に行ってみました。
この比企城館跡群には、69箇所の城館跡があって、国の指定史跡になっているそうで、関東を代表する中世城館の遺跡群が形成され、城郭の博物館とも言われているそうです。


先日の杉山城跡とも近い嵐山町にある菅谷館跡は、博物館もありましたが、今回は広い敷地内を歩くだけで博物館には寄りませんでした。こちらは、254号線沿いで街中ではありましたが、都幾川を臨む断崖の上に本郭が位置していました。
(*´∀`*)

畠山重忠(1164~1205)といえば、昔読んだ平家物語とか源平盛衰記とかに出てくる、源頼朝からも厚く信頼された武蔵武士代表のような有力武人だったんですね。この菅谷館と呼ばれる城郭のどこかに重忠の館があったとされているそうで、こちらに立派な石像で立っていらっしゃいました。

鎌倉時代には既に城郭があったということですが、この前に訪れた杉山城の歴史で、戦国時代に同族の上杉氏が抗争していたとありまして、この菅谷城館付近で激しい戦いがあったとあり、この比企郡地域での長い歴史の中での戦いの歴史を、ほんの少し垣間見た気がしました。土塁、空堀などは、最終的に戦国時代に整えられたのですね。

本郭、南郭・二ノ郭など土塁沿いを歩くうち、開けた所に出て、石垣と小さい建物があり、何だろうと近寄ってみますと、「忠魂祠」とあり、説明書きがあったので読んでみました。

説明書き
この祠(ほこら)は西南戦争以来、各戦
役等で散華した本町出身者三四三柱の
御霊を合祀したものであります。
昭和二年在郷軍人会の協力を得て創建
されたのであり、大東亜戦後 放置されて
いましたが、昭和四十年、旧軍人や関係
者の協力を得て再建したものであり
ます。そして同年九月十二日、ラバウル
の名将今村均元大将を招き、合祀慰霊祭
を挙行したものであります。石垣の石は
すべて、都幾産のものです。
嵐山町 社会福祉協議会

このように記されていて、はっと思ったのが、つい最近当ブログでもご紹介した「今村均陸軍大将」のお名前があって驚きましたが、感慨深く「忠魂祠」に黙祷を捧げました。

敷地内は広く、この後も三ノ郭、正てん門、復元木橋、西ノ郭と進むのですが、あちこちぼこぼこと土塁の山がありました。こちらは、本郭を守る高い土塁で「出桝形土塁」敵が侵入した際、横から矢を射かけるなど効果的に突いて防御するそうです。

こちらの土塁は、堀に面していて西ノ郭から三ノ郭内の様子を見通せないようにするためだそうで「蔀(しとみ)土塁」というそうです。

堀にかけられた復元橋は、四ノ郭から三ノ郭の出入口(正てん門)で、敵の侵入しにくいよう工夫され傾斜をつけているそうですが、復元なので、実際どのような橋だったのかは、わかってないそうです。
あちこちに、敵の侵入を防いだり、防御の攻撃が出きるよう土塁がたくさん作られていて、こちらも戦闘に備えた強固な要塞だったのだと思いました。
今回訪れた二つの城館跡、どちらもとても興味深い歴史探訪ができました。