[今村均]陸軍大将・・・10万将兵を救った不敗の名将!自らに戦争責任を課した徳の人! | おふくのブログ

おふくのブログ

日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。

上に立つ者、例えば現在の政治家に、このような人物はもういないんだろうな。

徳の人という、頭が良いとか学歴があるとかそんなことではなく、きっと人として正しい信念の持ち主で、知識を生かし最良の判断ができる、胆力があり持てる力をすべて注ぎ行動する、だから最悪を想定し人々には励ましの声をかけ明るく導き率先して行動し、結果、人の心を動かし着々と備え、戦いに負けることなく多くの部下の命を救うことになったのだと思う。

そして上に立つ者の覚悟、責任の取り方とは、こういうことなのだと教えられる。

こんな人物が、総理大臣だったら良いのになあ。

教科書には載らないけれど、知、情、意の調和のとれた人徳の名将「今村  均」陸軍大将、日本の誇るべき先人です。

貴重な映像もあります、どうぞご覧ください。


[今村均]陸軍大将・・・10万将兵を救った不敗の名将!自らに戦争責任を課した徳の人!   13:04

https://youtu.be/lvLEGKNJfv0

2023/01/09   


書き起こし



今村均

「今村  均(いまむらひとし)」は、日本の陸軍軍人。
1886(明治19)年6月28日~1968(昭和43)年10月4日。

陸士19期、陸大27期首席、最終階級は陸軍大将。
知、情、意の調和がとれた人徳の名将と知られている。

1886(明治19)年、今村は宮城県仙台市で誕生、
父は判事で代々仙台藩士の家柄だった。

19歳の時に天覧閲兵式を見学し軍人になることを決意、
陸軍士官学校に入学する。

陸軍大学校では極めて優秀な成績をおさめ、
卒業時には首席にまで上りつめた。

1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が勃発。

1942(昭和17)年3月1日、今村率いる第16軍は、
総兵力5万5千でインドネシアのジャワ島上陸を敢行。

わずか9日間の戦闘でオランダ軍は全面降伏する。

この時、ジャワ島の村の長老が今村にたずねた。

「あなた方は、何百年も昔からこの国に伝わる
予言にある黄色い人々でしょうか。」

インドネシアには長く言い伝えられた
ジョヨボヨの予言というものがあった。

12世紀前半に東ジャワにあったクディリ王国を
最盛期に導いたのがジョヨボヨ王で、

治世の末年に残したバラタユダという予言書には
次のようなことが記されていた。

「我が家王国は、どこからか現れる白い人びとに
何百年も支配されるだろう。
彼らは魔法の杖を持ち、
離れた距離から人を殺すことができる。

私たちが苦難に陥った時、
天から白い衣をまとった黄色い人びとが
舞い降りてきて白い人びとを駆逐する。
黄色い人びとは我が王国を支配するが、
トウモロコシの花の咲く前に去っていく。」


村の長老は、オランダ軍を追い出した日本軍を、
予言書に伝わる黄色い人々であると思ったのである。

その問いに今村は答えた。

「われわれ日本民族の祖先には、
この国から船で
日本に渡ってきた人々もいます。
みなさんと日本人は兄弟です。
我々はみなさんに
自由をもたらすために戦うのです。」


インドネシアの民衆は、予言の兵士が降りて来た!
ジョヨボヨ王の予言が実現した!と歓喜し、

各地でメラプティ(後にインドネシア国旗となる紅白旗)
を振って日本軍を迎え入れた。

今村がまず行ったのがオランダに収監されていた
独立運動家の釈放だった。

この中には、後に初代インドネシア大統領になる
スカルノの姿もあった。

政治犯として刑務所にいたスカルノに対し、
今村は次のように言って出獄させた。

「日本軍に協力しなくても結構。
あなたの政治的信念に従い行動して下さい。」

今村の行った軍政は次のような
現地民に配慮されたもので統治は大成功する。

・各所に学校などの施設を建設
・インドネシアの独立歌の禁止を解除
・インドネシアの独立歌のレコードを
    日本で作り現地の人に配布
・元支配者のオランダ民間人も、
    自由に住宅地に住めるようにする
・捕虜となったオランダ軍人は
    敵対行動しない限り自由な交流を許可


しかし日本政府内には「占領地に武威を示すべき」
と、考える者も少なからずおり、

政府高官が現地に調査団として派遣される事となり、
その調査結果が以下のように報告された。

・原住民は日本人に親しみを寄せている
・オランダ人は敵対を断念している
・治安状況、産業の復旧状況がずば抜けて良い
・軍事物資調達の成果が良い


調査団が今村の軍政を絶賛したにも拘わらず、
今村はラバウルへと異動となる。

この時のジャワからラバウルへの異動は、
嫌がらせ的な左遷ではないかともいわれた。

1942(昭和17)年11月20日、今村は
第8方面軍司令官としてラバウルに着任する。

戦局が芳しくない1944(昭和19)年の春に今村は、
部下に対し呼びかけ励ます。

「日本は今、
    一時的に戦力を失っているに過ぎない。
    必ず反攻してくる。
    日本軍が反撃してくるまで、
    ラバウルで生き延びて戦おう。」


かつて最強のラバウル航空隊の根拠地として
敵からも恐れられたこの地には既に満足な飛行機もなく、

いずれ日本からの補給が途絶えることを見越して、
自給自足の持久戦を考え今村は次のように命じた。

「畑は一人200坪耕しなさい。
    鶏も一人10羽ずつ飼いなさい。」


焼き払ったジャングルで野菜や稲の栽培を開始。
今村は自らが率先してクワをふるった。

これにより、ラバウルに7000町歩にも及ぶ
広大な耕地が生まれるに至った。

また、農地開墾と平行して地下工事を推し進め、
全長が実に370kmにも及ぶ地下要塞を作り上げた。

これは、東京から岐阜県大垣の距離に匹敵する規模で、
大規模な空襲にも耐えられ、

要塞の中には、5000人以上収容可能な病院や発電設備、
通信施設、兵器弾薬の生産工場まであった。

「これならやれる。100年戦争をしてやろう。
    食糧が豊かで軍備の充実した今村王国をつくって、
    100年間頑張ろうじゃないか。
    最後まで意気軒昂を保ち友軍の反攻を待つのだ。」


将兵たちはそれを合言葉に一致団結していた。

連合国軍側は、難攻不落な要塞と化したラバウルに
周辺を固めつつも攻略は半ばあきらめていた。

ラバウルの要塞は、ほぼ温存されたまま終戦を迎える。

「勝ち得ない戦争で部下将兵の命を失うほど
    大きな犯罪はない。」

今村はそう語り、
自給自足により多くの日本兵を救ったのである。

しかし、終戦の詔勅が知らされた夜に事件が起こった。

「本国が降伏した以上、
    我々は今村王国を建設して戦うべきだ。
    武装解除すべきではない。」

青年商工会らが決起を図ったのだ。

これにたいして今村は次のようになだめた。

「君たちはラバウルに
    難攻不落の要塞を見事に築き上げた。
    そんな優秀な人材達がここであたら命を失っては、
    日本の再起は覚束ないじゃないか。
    ラバウルで活躍した君たちのエネルギーを、
    帰国して国の復興にこそ役立ててほしい。」

今村は、連合国から戦争犯罪裁判で
戦争指導者としての責任を問われ、

不法行為に対する監督責任でBC級戦犯の
容疑がかけられる。

このとき今村は、法廷で次のように主張している。

・敗者のみ裁き戦勝国の行為に触れていない。
・国際法に基づいていない。
・日本軍首脳部に責任がある事柄について、
    下級者のものを罰している。
・証拠能力の薄いただの伝聞を採用し、
    有効な証拠として扱っている。
・戦時中の異常心理を無視して、
    平常の考え方のみで裁いている。

今村は自己保身の為ではなく、
不当な裁判を受ける部下を救う為にこれらの主張をした。

ラバウルで行われたオーストラリア軍事裁判では
禁錮10年の有罪判決が下され、

ジャカルタで行われたオランダ軍事裁判では
死刑が求刑されますが証拠不十分で無罪となった。

今村がオランダ軍から裁判を受けている時に、

かつて今村が軍政をしいたインドネシア住民たちが
助命嘆願運動を行った。

その中心となったのは、今村が解放したスカルノだった。

スカルノは、今村が死刑判決を受けた場合の
救出作戦まで考えていた。

しかし、それを聞いた今村は、

「ありがたいが、
    私はその時は堂々と刑を受けます。」

と、答えて、救出を断ったと言う。

今村は1949(昭和24)年に巣鴨拘置所に送られた。

しかし、部下たちが劣悪な環境のニューギニアの
マヌス島刑務所にいることを知ると、

「自分だけ、
    環境の良い東京にいることはできない。」

として、旧部下とともにマヌス島で服役することを望み、
マッカーサーに直訴した。

今村の申し出についてマッカーサーは、

「私は今村将軍が
    旧部下戦犯と共に服役する為、
    マヌス島行きを希望していると聞き、
    日本に来て以来初めて
    真の武士道に触れた思いだった。」

と言って、これをすぐに許可した。

1950(昭和25)年3月から1953(昭和28)8月まで
今村はマヌス島オーストラリア軍刑務所に服役、

その後、他の日本人受刑者とともに巣鴨に移管され、
1954(昭和29)年1月に刑期満了で出所した。

入獄中から執筆を開始していた今村は、
出獄4年後に「今村均回顧録」を完成させ出版し、

印税の全てを戦死者や戦犯刑死者の遺族のために用いて、
元部下に対して出来る限りの援助を施した。

今村のその行動につけこみ元部下や遺族と騙って
お金を要求するものもいたが、

「戦争中に多くの部下を死地へ送った身。
    戦争が済んだ後は、
    黙って騙されなければいけません。」

今村はそう言って、敢えてとがめることはなかった。

1955(昭和30)年9月24日、防衛庁顧問に就任。

その一方で今村は出所後は自宅の庭に建てた
謹慎小屋に自らを幽閉した。

それは、戦争による責任を自ら反省した
贖罪の意識からの行動で、

没するまでの十数年間の殆どをそこで過ごし、
命を落とした部下たちの冥福を祈り続けた。

1968(昭和43)年10月4日、
今村均は82歳でその生涯に幕を下ろした。

墓は、宮城県仙台市の輪王寺にある。




あなたにも先人の声が聞こえます



以上です。



補給路が絶たれても、自給自足で賄ってしまう、地下に370kmに及ぶ要塞とか、敵が手出しするのを躊躇うほどの備えというのだから、もう、想像もつかないです。そんな大仕事も、部下の命を大事にした情が厚いリーダーのもとだから、一致団結出来たのだと思いました。