石油危機にインドネシアが動く『日本は我々の救世主、英雄だ』 | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。


ここでも、先人が戦ってくれたから、命を懸けて、日本のためにそして、その地の人々のために、だから私たちは平和に暮らして来れた、それがわかるお話でした。

石油危機にインドネシアが動く『日本は我々の救世主、英雄だ』〖海外の反応-日本人に誇りを!〗 9:25
https://youtu.be/9bszMbPEUSk
【海外の反応-日本人に誇りを!】
内容書き起こし



インドネシア独立宣言には
「17・8・05」と記されています。


これは神武天皇
即位起点の皇紀です。


皇紀2605年8月17日、

つまり1945年8月17日に
独立したということです。


西暦に660年を足すと
皇紀になるのは

インドネシアでも
知られていたのです。


1602年、

オランダは
インドネシアを侵略して、

ヨーロッパで高く
売れる香辛料を独占しました。

支配した途中では

コーヒーや砂糖を
強制的に栽培させ、

ただ同然でオランダ本国
へ持ち去っていったのです。


それによって

インドネシアの住民は
自給自足が出来なくなり

食料は無くなりました。


これにオランダ
がやったことは、

食料を住民に
高く売りつけることでした。


当然、

収穫のない住民
にお金もないので、

オランダは住民に借金を
させて食べ物を売ったのです。


当然、

収入がないから
借金は返せません。


返せないのをわかって
住民の土地を奪いました。


食べ物が
なくなりお金もなくなる、

しかも土地まで
奪われてはこの先どうするのか、

ついに住民たちは
オランダのやり方に怒り、

独立のための
闘争を行います。


しかし、

すべて制圧されてしまいます。


力かすべてでありました。


それから300年後、

アジアの小国・日本が

大国ロシアを
打ち破った日露戦争を見て、

「同じアジア人が白人に
戦って勝ったんだ。

我々もやればできる」

と日本から大きな
勇気を与えられました。


そして1941年。

あの小さな強国・日本が

今度は大国・アメリカ
に戦争を挑んだのです。


たとえ国は小さくとも、

理不尽な白人の言い分に
唯々諾々とするのではなく、

正義のために、

そして自国を

白人の植民地支配に
されぬよう戦ったのです。


さらにその日本軍が
インドネシアにやって来ました。


350年間どうやっても
勝てなかったオランダ軍を

日本軍はたった
7日間で打倒したのです。


抑圧されて
奴隷のように扱われてきた

インドネシアの人たちは
日本軍を大歓迎しました。


そして日本軍は

インドネシア語
を公用語にしたり、

教育を施したり

現地人に独立の力を
つけるために

防衛軍ペタ
を訓練しました。



日本の終戦後の
1945年8月17日

初代大統領
スカルノは独立を宣言しました。


にもかかわらず

イギリス軍が
スラバヤに上陸してきました。


しかし日本軍の武器を持って

日本軍に訓練された
インドネシア軍は強く、

イギリスは
インドネシア軍に敗れ、

撤退を
余儀なくされました。


イギリス軍は撤退しても、

オランダ軍は

強い日本軍がいなくなった
インドネシアの再植民地を
あきらめませんでした。


1947年、

警察行動と称した
オランダ軍が軍事攻撃をします。


そしてジャワやスマトラ
の油田地帯を占領しました。


しかし、

このオランダ軍の

侵略行動に
世界中から非難されます。


それでもオランダは

第二次警察行動と称して
都市を無差別攻撃します。


これ以上やると

マーシャル・プラン
を打ち切ると宣告され、

遂にオランダは
和平交渉に応じたのです。


このオランダの
身勝手な軍事占領で

インドネシアでは
80万人の死者が出ました。


これに対し
オランダは謝罪ひとつせずに、

インドネシアに戦費を要求、

恩給の支払いも要求し、

やむなく

インドネシアは
すべてを飲んだのです。


1949年12月、

独立を勝ち取った
インドネシアですが、

戦争で困窮したため、

年金も支払えず、

遂に独立軍を整理し、

わずかばかりのお金を
引き換えに退役を迫りました。


当然、

ともに戦ってくれた

残留日本兵部隊
にも解散を命じました。


日本兵は皆が

インドネシア名
を持っていました。


祖国を離れて
インドネシアのために

命をかけた日本兵も
わずかなお金で

退役させなければ
なりませんでした。


インドネシアの
サンバス長官は日本兵に対し、

涙を流しながら、

一人一人に
敬礼し除隊を命じました。


しかし、

日本の先人たちの

インドネシア
での献身的な貢献を
インドネシアの人々は忘れず、

語り継いでくれていたのです。



インドネシア
独立宣言の達成に際し、

真摯かつ誠実に
われわれを援助してくれた

日本の友人がいたことを、

私は死ぬまで
忘れるものではありません。

 ~初代インドネシア
  外相のスバルジョ



1973年、

石油ショックが起きました。


アラブ石油輸出機構
(OAPEC)が中東戦争を

有利にするため
に石油供給を削減、

日本の産業は
大きな打撃となりました。


この時、

日本政府は
OAPECのリーダーであった

サウジアラビア
国王のファイサルに、

日本向け石油供給
の増加を依頼します。

この仲介をしたのが

インドネシアの
アラムシャ副首相
などの指導者たちでした。


彼らはこう言いました。


「キリスト教(オランダ)
の支配からイスラムの民を救い、

独立まで支援して
くれたのが日本であり、

日本はイスラムの味方だ」

とファイサル国王
を説得してくれました。


現在も日本の石油の9割は

イスラム諸国
から輸入されています。


誰のお陰で
今の日本があるのか。


戦後教育は
これを教えません。


先人たちは亡くなっても、

その肉体は失っても、

その精神と偉業は
今も生きているのです。

ーーーーーー

インドネシア・タイムズの

ジャマル・アリ会長は
かつてこう言いました。


「我々には日本を
批判するだけの
中国や韓国と違って

歴史とプライドがある。

お金を出せなどとは

350年間わが国を支配した
オランダにさえ要求しない」

日本も正しい歴史を
共有できる国と友好すべきだ。



インドネシア
残留元日本兵を訪ねて
長  洋弘




以上です。




江戸時代が始まった頃から、インドネシアはオランダの侵略・狡猾な植民地支配を受けていたのですね。

日本はオランダとは違った。

「誰のお陰で今の日本があるのか。戦後教育はこれを教えない。」
教えないだけでなく、学校教育だけでもなく、嘘で先人を貶めてきたと思います。

そして、日本人がどう生きたのか、何が素晴らしかったのか、忘れてしまい、国を危うくしている。

同じ日本人からではなく、先人たちが命がけで守り、ともに戦った国の人たちから、先人がいかに偉大だったかを教えてもらうことも多いですね。

自分たちの口から伝えていきたいです。
日本人皆がそうしなければいけないことなのだと思います。