米軍が恐怖に震えた白き零戦(ゼロ戦)伝説!『日の丸も真っ白だった…』 | おふくのブログ

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気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。

ゼロ戦にまつわるお話。名前の由来や、ゼロ戦が登場する不思議だけれど泣けてくる話や、『撃墜王』と呼ばれた坂井三郎海軍中尉についてのお話です。パイロットたちは、常に生死をかけて戦っていたのだろう、どんな思いで戦ったのだろうか、想像し胸が熱くなりました。


米軍が恐怖に震えた白き零戦(ゼロ戦)伝説!『日の丸も真っ白だった…』[海外の反応-日本人に誇りを!] 11:32まで、以後は繰り返しになります。※元動画削除の為差し替え




内容書き起こしです


米軍も
恐怖した
白き零戦



◇白きゼロ戦の伝説◇


今回は、海軍航空隊
の生き残りであるA氏が

実際にアメリカ兵に
聞いた話や体験談を元に

ゼロ戦にまつわる、
伝説に関して少し紹介したい。



■ゼロ戦の名前の由来とは?■


まず、ゼロ戦の
名前の付け方である。

なぜ「ゼロ戦」
というのであろうか?

これは、当時の日本が
神武天皇の治世から数えて2600年、

要するに皇紀2600年に
当たる年である1940年に
正式に採用されたという事である。

ちなみに日本の兵器は、
現在も西暦の下二けたの数字を
その機種につけて表記を
する事が慣例になっている。

さて、このゼロ戦は、
ねじ1本にまでこだわり、
ねじそのものの軽量化や、

ねじの頭を打って
平面にする事によって、
気流を安定させるなど、

徹底した軽量化と
エンジンの工夫によって、
大戦当初、無類の強さを誇った。

この細やかな技術は当時の
外国人には理解できるものではなく
アメリカ軍からは

「ゼロ・ファイター」

として恐れられた。

しかし、それも序盤である。

アメリカが
新型戦闘機を導入してからは、
ゼロ戦の劣勢が続いた。

日本のゼロ戦の
当初の成績が良すぎたために、

新型戦闘機への
改良がなかなか前に進まず、
マイナーチェンジだけを行ってきた事

また多くの熟練
パイロットの戦●によって
新人戦闘機乗りが多くなった事、

などから戦闘での喪失が
続くようになってきたのである。


■アメリカ軍をおののかせた幻の
ホワイト・ゼロ・ファイターとは?■


しかし、

ゼロ戦を凌駕する
戦闘機の開発に成功した
アメリカ軍の中で、
1つの大きなウワサが立った。

「ホワイト・ゼロ・ファイター」

である。

戦争も終盤、

日本の劣勢が
明らかになった後の話である。

アメリカ軍の艦隊が
太平洋中ほどの
ウエーク島近郊海域を航行中、

アメリカ空母の
レーダーに多数の機影が映った。

「日本軍に違いない」

と考えたアメリカ軍は、
すぐに護衛空母から戦闘機を発艦。

また、偵察機に
爆弾を積んで複数出したのである。

これは、洋上である事から

“近くに日本の空母艦隊がある”

と想定した事によるものだ。

しかし、
いくら探しても日本の艦隊は見えない。

また、
機影が映った辺りに
日本の戦闘機も
まったく見当たらなかった。

空母司令部は、
発艦させた航空機
に戻るように命じた時、
偵察機から一報が入るのである。

「敵ゼロファイター多数発見、
襲ってきます。ワァー・・・・・・」

・・・・・・偵察機は、
その後、交信ができなくなった。

アメリカ軍の
戦闘機はすぐに現場に急行。

日本の空母艦隊がいるものとして
爆撃機や雷撃機も多数発艦させた。

しかし、
その戦況は思わしくない。

味方の航空機が
次々と落とされてゆくのである。

やっとの思いで
帰還したパイロットに聞くと

「敵のゼロ戦は、いつもと違い、

“真っ白で日の丸も白かった”

動きもおかしく、

今まで何も
見えなかった所から突然現れ、
気がつくと
仲間の戦闘機が数機墜とされる。

さらに、ゼロ戦は、
いくら撃っても弾が当たらない。

いや、
当たっているけれど
まったく効かないんだ。

俺のすぐ横を通ったが、
窓ガラスは割れていたし、
ウイングにも多数の銃痕が残っていた

普通なら、
あんな奴は飛んでいられない。

でもゼロ戦に
乗っていたアイツ、

中でにっこり、笑っているんだ。

そんな白いゼロ戦が何機も襲ってきた

そいつを撃とうとして、
味方を撃ってしまう奴も出てくる。

アイツはやばい」

・・・・・・結局、

爆撃機なども
多くが帰還せず、
日本軍の損害はゼロ。

そして空母も見つける事は
できなかったというのである。

しかし、これらの証言は、
当時のレーダーの
性能の低さなどが理由となり、

一切採用される事なく、

空母機の損失は

“訓練中の事故”

として片付けられたという。

けれども、
アメリカ軍の中では

「ホワイト・ゼロ・
ファイターには手を出さず
十字を切って帰還する」

という事が暗黙の
了解とされていたのだ。



■ラバウル航空基地を救った、
“英霊”の乗ったゼロ戦とは?■


ゼロ戦で有名なのは、
何も空母艦載機ばかりではない。

現在の南太平洋にあるラバウルには、
日本軍の大規模な航空基地があり、

「大空のサムライ」

坂井三郎氏など、
多数のエースが存在した。

アメリカ軍からも

「ラバウル航空隊」

として恐れられていたのである。

ちなみに、
「ラバウル航空隊」
という組織は存在しない。

ラバウルには
海軍基地と陸軍基地が存在し、

その総合名称として
「ラバウル航空隊」と呼ばれていた。

軍歌「ラバウル小唄」で、
より一層有名になるのである。

そのラバウルで
ある日、警戒サイレンが鳴った。

敵機襲来の警報である。

ラバウルは
山に囲まれた地形であり、
その山を越えれば、すぐに基地になる。

しかし、敵機は
その山の上で急に戦闘を始めた。

敵機の敵、要するに、
日本の味方が戦っているのであるが、

基地にいる人々にとっては
山があるために、
味方の軍機はまったく見えなかった。

けれども、
先に説明したとおり、
陸軍基地と海軍基地が
混在していたラバウルであるため、

いずれもが、
他の基地の所属の
日本軍機が戦っていると思っていた。

そこで、

「ほかの基地に負けていられない」

として、海軍航空隊が
すぐに戦闘機を出したのである。

しかし、戦闘機がつく頃は
敵機のほとんどは撃ち落とされ、
残存機も戻っていった後であった。

日本軍機は
ほとんど何もせずに
基地に戻ってきたのである。

数時間後、別な編隊が現れた。

敵の再来かと思われたが、
今度は日の丸を付けた飛行機である。

「彼らが敵を
追い払ってくれたのだろう」

と考えた基地の人々は、
手旗を持ってそれを迎えた。

航空機は、
羽を左右に揺らして
友軍機である事を示すと、
そのまま着陸態勢に入った。

そして、
滑走路に滑り込んだ瞬間、

轟音と風を残して

“消えてしまった”

のである。

十数機の航空機が
着陸したかのような轟音と風が出たが
機影はまったくなかったたという。

手旗を振っていた兵は、
その飛行機の尾翼の印から

「先日墜落した飛行機」

である事をすぐに理解した。

基地の人々は涙を流しながら、
ずっと旗を振っていたという。

翌日、
基地の人々が全員で墓や神社に
手を合わせたのは言うまでもない。

アメリカ軍は
ラバウル基地上空で、
すでに戦死した英霊と戦ったのだ。

逆にラバウルは、この

『英霊のゼロ戦に守られている』

という伝説があり、

そのために、終戦まで
残ったといわれているのである。



■『撃墜王』の異名を持つ
史上最強のゼロ戦パイロット■


太平洋戦争において、

『撃墜王』

として、その名を轟かせた、
ゼロ戦のエースパイロットがいた。

その名は坂井三郎。

坂井は1916年、佐賀県生まれ。

33年に海軍入隊し、

38年より九六艦隊、
ゼロ戦の操縦士として、
敵機大小64機の撃墜スコアを持つ。

太平洋終戦時は
海軍少尉、最終階級は海軍中尉。

ゼロ戦を駆って大空で活躍した。

坂井氏は、
自らの圧倒的な努力について、
こう回想している。

「戦闘パイロットは
敵に見つかれば命を失う。

そこで、
こっちから敵を見つけるために、
昼間の星でも
見えるほどに視力を鍛え上げた。

見えなければ●される。

そう思って
訓練していくうちに
実際見えるようになった。

お蔭で、一度も
敵に発見された事がない」

そんな彼には、

“人情味溢れる”

ある有名なエピソードがある。

ある日、
大型の敵機が単独で
飛行しているのを発見、

近づいてみると、
それは兵器を持たない、
ただの輸送旅客機だった。

“これは多分、
重要な人物でも乗っているな”

と考えた坂井氏は
撃墜するよりも威嚇して誘導し、

自分たちの基地まで
連れ帰って捕虜にしようとした。

しかし、
誘導がうまくいかず、

撃墜するかどうか
悩んでいる際に、ふと、
旅客機の窓に目をやると、

そこには、
幼い娘を抱きかかえた、
若い母親の姿があった。

“敵とはいえ、

この抵抗する手段を
持たない人々を殺して
この戦争に、
どんな影響がでると言うのだ。

この母娘を殺す事は畜生にも劣る”

と考えた彼は、

その旅客機の
パイロットに向かって指で

『いいから行け』

と合図し、その場から飛び去った。

その後、彼は

軍人として、少なからず
この敵を逃した行動を恥じたのか、

亡くなる少し前まで
誰にも、この話を語る事は無かった。

しかし、退役軍人のパーティーで

「もう時効でしょうから・・・」

という事で、この話をした所、

この話を伝え聞いた、
外国の記者が彼等の消息を追い、

なんと親子が
存命という事が判明したという。


また、彼は、
自身が残した、
驚異的な撃墜スコアを
決して、ひけらかす事はなかった。

・・・ただ一つだけ、
そんな彼にも
誇りにしていた事がある。

それは、どんな窮地に陥っても、
自分の部下達を●なせなかった事だ。

「いかに自分を、
そして部下の命を
守りながら勝利するかを
全身全霊を挙げて研究努力した」

そんな彼は、
戦争に対して
どんな思いを抱いていたのか。

「“愚かな戦争”といわれる、
太平洋戦争に参加した日本海軍の
一兵士として、一パイロットとして、

戦った戦友たちが
何を考え、どう戦い、
何を悩んで●んでいったかを、

臭いものに蓋をせずに
語り続ける使命がある。
確かに、戦争中、私は
数多くの命を奪った。

だからこそ、

“自分が
手にかけた人達の数以上に
誰かを幸せにしなければ
自分は死ねないんだ”

という信念で毎日を生きている」

坂井氏は自宅の神棚に向かい、
戦死した仲間だけでなく、

撃墜したアメリカ、イギリス、
オーストラリアや中国の人の魂にも
毎日手を合わせていたという。


2000年9月22日に永眠。

享年84歳。

坂井氏は
21世紀を見ずにこの世を去った。

しかし彼が究極の
“生き死に”の境で得た、
生きる覚悟と平和への思いは、
21世紀にも
必ず語り継がれる事だろう。



以上です。



ホワイト・ゼロファイター、白き戦士たち。以前にも、亡くなったはずの英霊が米軍と戦ったお話がありましたが、やはり白く輝いていたと思います。無念だったのだろうな、死してなお守ってくれている、読んでいて泣けてきました。不思議だけれど、本当にそうだったのだろうと思いました。
“戦争に影響ない抵抗する手段を持たない人々を殺す事は畜生にも劣る”他のどんな国より日本人の根底にある考え方だと思います。日本は、非戦闘員に大量破壊兵器を平気で墜とすような畜生にも劣る考えをする敵に対し、必死に、でも堂々と戦っていたんだ、坂井氏の言葉を聞いて、そう思いました。
戦後、坂井氏の残した言葉は、重く心に残るものでした。