『生きて帰れ、戦う為に』日米ソロモン海戦に涙が止まらない | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。


あえて特攻せず、通常攻撃に徹した芙蓉部隊を率いた美濃部正少佐のお話です。それは特攻を否定するのではなく、最後の最後まであきらめず戦うためだった。日本は、米国にやられるままだったのではない。有らん限りの手を尽くして戦ったのだと。そして全て先人たちの戦いは、戦後矮小されたり知らされてこなかったけれど、莫大な戦果があったのだということがよくわかりました。


『生きて帰れ、戦う為に』日米ソロモン海戦に涙が止まらない 16:55
https://youtu.be/G3bi_ACAOHU
【海外の反応-日本人に誇りを!】

内容書き起こし


戦後よく特攻戦法
を批判する人があります。

それは戦いの
勝ち負けを度外視した、

戦後の迎合的
統率理念にすぎません。


当時の軍籍に
身を置いた者には、

負けてよい戦法は
論外と言わねばなりません。


私は不可能を可能と
すべき代案なきかぎり、

特攻やむをえず、

と今でも考えています。


戦いのきびしさは、

ヒューマニズム
で批判できるほど
生易しいものではありません。


ーーーーーーーー美濃部正



文章からわかる通り、

美濃部少佐は、

戦後も生き残りました。


その彼は
航空自衛隊に身を置き、

最後は空将となって
後進の指導に当たっています。


美濃部少佐は
旧姓を太田といいます。


昭和16(1941)年
11月にご結婚され、

姓が美濃部と変わりました。


海軍兵学校は、
第64期で、最初は

水上偵察機のパイロット
をされていたそうです。


昭和18年11月に

ソロモン諸島の

水上機を装備した
航空隊の飛行隊長に就任し、

そこで水上偵察機を利用して、
夜間索敵や敵基地の夜襲を行い、

大戦果をあげています。


昭和19年1月には、

水上機たった一機
で敵の飛行場を爆撃し、

大成功をしています。


このあたりのことについて、

少し解説が
必要かと思いますので、

ちょっとだけ脱線します。


大東亜戦争の
転機となった時点について、

戦後、多くの識者は、

昭和17年6月の

「ミッドウェー海戦」

を揚げます。


ミッドウェーでは、

たしかにそれまで
連戦連勝だった帝国海軍が、

初といっていい
大敗北を喫したのですから、

そう思われても仕方がない
節があるかもしれません。


けれど、

ミッドウェーで
日本海軍が失ったのは、

空母4隻と
航空機285機にすぎません。


この時点では、

まだまだ帝国海軍には、
十分な余力があったのです。


それよりも、

日本が戦力を
大幅に消耗したのは、

実は、

ミッドウェー海戦
の後に行われた、

ソロモン諸島の戦いです。


この戦いは、

昭和17年8月から
昭和18年11月まで、

1年以上に渡って
行われた戦いで、

日本は8万人の
将兵を戦死により失い、

艦船50隻、

航空機1500機を喪失しました。


もちろん米軍側も、

この戦いでは
たいへんな損害を出しており、

米軍側も戦死11000人、

喪失した艦船40隻、

航空機800を失っています。


日米両軍とも、

大消耗戦を戦い、

最終的に日本が

ガダルカナル島の
拠点を放棄して、

戦線を縮小し、

撤退した。


ではなぜソロモン諸島で、

両軍がこれだけの
大消耗戦を行ったかというと、

理由があります。

それはひとことでいえば、

米軍が

「戦法を切り替えた」

ということです。


それまで、米軍は、

米海軍の
機動部隊による

日本統治領への進出を
作戦の主体にしていました。


ところが、

黄色い猿と見下していた
日本側がとても強い。


米海軍は、

空母やら艦船、

あるいは航空機が
次々と撃墜されたり

沈没させられたり
していたのです。


そこで米軍が考えたのが、

陸上の飛行場の建設です。


まず、

日本軍がやってこない
後方に飛行場を建設する。


そこから飛行機を発進させ、

日本軍の基地を叩く。


日本軍が

防戦している間に、

前線に米軍の飛行場を建設する。


要するに、

空母だと
強力な日本軍の

航空隊に空母ごと
沈められてしまうから、

陸上に飛行場を建設
しちまおうというわけです。


南方の島々は、

珊瑚の島だから、

基本、平坦です。


だからそこに
ブルドーザーを持ち込んで、

一気に木々をなぎ倒し、

鉄板を敷いて
滑走路にしてしまう。


普通に私たちの
現代の感覚から見ても、

成田に飛行機を
ひとつつくるだけでも、

膨大な期間を要する
大工事が想像されます。

それを

一夜のうちに
実現してしまった。


当時の日本軍にしてみれば、

「まさか」

の出来事だったわけです。


そして陸上の滑走路は、

上に枯れ葉を敷き詰めた
ネットを敷くことで、

簡単に偽装できた。


ですから、

日本軍からしてみれば、

米軍の飛行機が

どこから
飛んでくるかわからない。


きわめて単純で
わかりやすい戦法です。


けれどこの単純な戦法で、

日本は7000機を越える航空機と、

7200人のパイロットを失った。


ミッドウェーの
比ではなかったのです。


米軍のこの作戦で、

日本は1年半後には、

この地域から残存空軍を
すべて撤収することになった。


昭和19(1944)年12月に
内地に帰還した美濃部少佐は、

米軍の行ったこの作戦を、

日本本土を守るため
に逆用しようと考えます。


彼はまず、

日本本土の後方に、

前線攻撃のための
航空機基地を構築した。


本土防衛のための
防空基地ではありません。


攻撃のための基地です。


その場所は
静岡県藤枝市、

現在の
航空自衛隊静浜基地です。


昭和19年12月から、

翌昭和20年1月にかけて、

まず優秀な
パイロットをこの基地に集めた。


そして艦上爆撃機
として生産されながら、

故障が多いからと
放置されていた

水冷型エンジン搭載の

「彗星」

を、この基地
に集結させます。

そして1月には、

正式に3個飛行隊を
擁する芙蓉部隊を創設し、

ここを拠点に猛烈な
急降下爆撃の訓練を実施します。


その年(昭和20年)3月、

沖縄戦が始まります。


美濃部少佐は、

芙蓉部隊の前線基地を、

鹿児島県の鹿屋に進出させる。


沖縄に集結した
米軍機動部隊は、

千機以上の航空機をもって、

九州一帯から
瀬戸内方面まで、

日本軍の
航空戦力に爆撃を敢行し、

大打撃を与えます。


一方日本側は、

米艦隊に向けて
特攻攻撃を仕掛けるとともに、

新型戦闘機の

「紫電改」

による精鋭部隊で
米軍航空隊を迎撃します。


特攻隊は、

昭和20年3月19日には、

米軍大型空母フランクリン、

同ワスプを急襲し、

フランクリンを大破させ、

戦死832人の戦果をあげ、

ワスプも大破して

戦死302人の
大戦果をあげています。


さらに5月11日には、

米軍の誇る大型空母

バンカー・ヒル
も大破させている。


この間の
芙蓉部隊の戦果も
めざましいものがあります。


芙蓉部隊の
進出した鹿屋飛行場では、

まず飛行場への
空襲を回避するため、

使用中以外は

滑走路に仮設小屋や
立木を置いて偽装し、

滑走路に家畜を引き入れて
牧場風にしただけでなく。

飛行機も
木の枝などで徹底的に隠し、

また到着した飛行機からは
ガソリンを全部抜き取って

火災になる
損傷を最小限に抑えます。


そして、特攻機が飛び立つと、

特攻機が米軍によって
レーダー補足されないよう、

特攻機の進撃方向とは

全然別な空域に
金属片を散布して偽装し、

特攻攻撃を成功に導きます。


さらにロケット弾や、

空中で爆発して
爆片をまきちらす

新型爆弾など
を積極的に導入し、

4月6日には、

嘉手納海岸周辺
の米軍巡洋艦を撃沈。


さらに12日には、

米軍が占領した
嘉手納基地を急襲して爆撃。


16日には
同じく嘉手納基地、

読谷基地を
急襲して爆弾を投下。


20日から26日にかけて、

索敵行動をし、

敵機を迎撃し、

中飛行場、

伊江島飛行場の米軍を爆撃、

慶良間で米艦隊を銃撃し、

係留してあった飛行機を撃破。


30日には
敵夜戦機をおびき出し、

燃料切れまで
引っ張り回した上で、

飛行場を襲撃し、

敵空母を大破。


こうして芙蓉部隊は、

8月15日の終戦の前日まで、

述べ630機を出撃させ、

莫大な戦果をあげます。


その戦果に対して、

損害は、47機のみです。


しかも終戦時点で、

なお50機の
残存全力を持っていた。


芙蓉部隊は、

あの物資の欠乏し、

戦局厳しくなった戦争末期に、

あえて特攻は行わず、

人知の限りを尽くした
戦法による爆撃や迎撃で、

最後まで戦い抜きました。


戦争が終わり、

GHQによる
日本人洗脳計画がスタートし、

日本国内では、

メディアや
左翼系有識者らが
これに悪のりすることで、

戦争を起こしたのは
全部軍部のせいだ、

特攻などは、

軍部が人命軽視を
していたなによりの証拠だ、

などといった論調が
形成されていきました。


そうなると、俄然、

注目を浴びるのが、

最後まで特攻攻撃ではなく、

通常攻撃にこだわって

大いなる戦果をあげた
芙蓉部隊の存在であり、

美濃部少佐の存在です。


メディアや
左翼系学識者らは、

なんとかして
美濃部少佐を引っ張りだして、

彼を戦時中、

「人命軽視」

の特攻攻撃に逆らった

ヒーローに
仕立て上げようとします。


ところが、

美濃部少佐は、

こうした世論(?)の流行に

いっさい
妥協しようとしなかった。


いくらそれが
世論だからといっても、

彼は帝国軍人として育った

自らの信念を
曲げることはなかった。


美濃部少佐は、

航空自衛隊が組織されると、

これに入り、

最後は空将
にまで登り詰めます。


その彼は、ひとこと、

次のように述べています。

「戦前の海軍兵学校の
人間教育及び卒後の人間関係は、

戦後のどんな教育機関、

組織より優れていたよ」



《著書》
特攻セズ
美濃部正の生涯

 境克彦

生きて帰れ、戦うために。




以上です。



ソロモン諸島での戦いが、どれほど過酷で日本にとって痛手だったかということを知りました。しかしそれをヒントに美濃部少佐率いる芙蓉部隊がとった戦法、沖縄戦に於いて日本がどれだけ獅子奮迅の戦いをしたのか、物資も欠乏する中、人知の限りを尽くしたものだったのですね。日本が持てる総力で戦い、日本を守ってくれた特攻攻撃さえもただ否定し矮小し長年私たちには知らされてこなかったけれど、米軍の損害の大きさを知るにつけ、米国を畏れさせ日本の戦後につながる大きな力、それは英霊と先人の力であったのだと改めて思い至り、感謝の気持ちが溢れました。