ノボの生き活きトーク 471号: 1964東京五輪 その15 | 生き活きノボのブログ

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        永遠なれ 1964東京五輪   ~ ある中学生の遠い記憶と想い ~

 

14想  柔道の光と影

 

 柔道は男子だけではあったが、1964東京五輪から正式に競技種目に加えられた。日本が発祥の国であるだけに、柔道はまだ圧倒的に日本が強く、多くの金メダルが期待された。当時、オランダのヘーシンクという強敵がいると聞いていたが、日本は全階級で金メダルを取ることを前提にして臨んでいた。期待した通り、68キロ以下級では中谷、80キロ以下級では岡野、80キロ超級では猪熊と順調に金メダルを取り、いよいよ神永とヘーシンクが対戦する無差別級の決勝となった。この試合は、ウィークデーの午後に行われ、我々中学生は学校で授業を受ける時間帯であったが、学校の計らいで、これも教育の一環と解釈されたのか、生徒はテレビの置いてある広い部屋に集められ、観戦することになった。

異様な雰囲気の中で神永とヘーシンクの試合が始まり、小生等は手に汗を握って応援した。テレビで見るヘーシンクは神永に比べて身長も体格も秀でており、なるほど、これでは神永が不利だなと直感した。神永は国民の期待を背負い積極的に出ようとしたのだろうが、相手に通じる気配がなく、逆に倒され、押さえ込まれると動けなくなった。一本になるまでの時間が迫る。日本人の誰もが「神永、起きろ」と叫んでいた。そして遂に、一本となる時間が経過し、負けてしまった。本家日本柔道が破れた瞬間である。神永は無念に思ったのか、しばらく畳から起き上がらなかった。日本中の国民は悔しい思いを持っただろうが、神永が一番悔しかったのかも知れない。だが、神永は起き上がると服装を整え、一礼してヘーシンクと握手した。これが、“礼に始まり、礼に終わる”柔道の極意だったのだろうが、当時中学生だった小生には残念さが残っただけだった。

 この時、神永は、その頃通用していた日本流の技と技の戦いで、ヘーシンクに負けた。相手とがっぷり組んで、自分の持てる技量を駆使して負けたのだから、体格と体力の差はあったとしても、仕方のないことであろう。いわば日本流の柔道で負けたのだから。ところで、柔道が国際的スポーツとなったことで、いろいろな国の人々が柔道をやり始めた。柔道はルールのあるスポーツとなった訳だから、そのルールさえ犯していなければ、何をやっても文句はつけられない。柔道の精神とか、日本人が持っている柔道の暗黙の規律はルールの中には含まれない。勝ち負けだけが重要であり、勝ち方などは問題にならなくなる。技の捉え方も変化してくる。

 国際化した柔道は日本の武道というより、世界のスポーツとして変容していった。相手に十分な組手をさせないように、ほとんど組まず、ポイントを稼ぐ柔道に徹する戦い方など、その後の柔道は、1964東京五輪の時のようなスタイルではなくなっている。柔道がオリンピック競技の一つとして国際的に受け入れられたならば、日本人の持つ武道としての柔道は、あり得ないのだろう。1964東京五輪は、まさに柔道を変質させたイベントであったのか。