ノボの生き活きトーク 463号: 1964東京五輪 その7 | 生き活きノボのブログ

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            永遠なれ 1964東京五輪   ~ ある中学生の遠い記憶と想い ~

 

第6想  夢と熱狂の開会式

 

 1964東京五輪は、厳かなファンファーレから始まった。白い儀礼服を着た金管奏者がスタンドに間隔を空けて整列し、高らかにハーモニーを響かす。美しく共鳴した金管のメロディがゆっくりと上昇していき、登り切ったところで付点リズムも交えて喜びを爆発させる。古代ギリシャの競技場でも、まさにこのようにファンファーレが響いていたと思わずにはいられない。ファンファーレが響き終わると、大編成のブラスバンドによる東京オリンピックマーチが流れ始める。古関裕而が作曲したこの曲は、この時初めて聞いたが、音質の劣る当時のテレビで聞いても、鳥肌が立った。

 何と素晴らしい行進曲か、と小生はいたく感動する。とにかく喜びと誇りを感じさせ、かつ堂々として、粛々そして優雅さもある。“タンタ・タン・タン タタタ・タンタ・ターン”という短い序奏に続いて、四拍子に乗って“ターララ・ラッター タララ・ラッター タララ・ターララー”とメロディは滑らかにそしてリズミカルに流れる。スムーズなメロディラインで音の跳躍は小さい。それが安定した行進を生み、初めて聞いてもすんなりと耳に入って行き、身を震わす感動を与える。とにかく、メロディが覚え易い。この第一メロディは様々に発展して進行し、一段落すると、次に鉄琴が新たなメロディを優雅に響かせる。これが第二メロディであり、第一メロディと対照的に、下降傾向を示すメロディが何とも優しい。小生はこの東京オリンピックマーチの楽譜を見たことがないが、小生の聴感では三部形式ではないかと思える。つまり第一メロディ部が第二メロディ部を挟んだ形式であり、これが限りなく繰り返されていくのである。

 東京オリンピックマーチが流れ出すと、すぐにギリシャの選手団が大歓声に包まれて清楚な姿で現れた。ただ、その様子を白黒テレビで見るだけで、小生も感激した。各国のプラカードを持って選手団の先頭で歩くのは防衛大学の学生だとアナウンサーが紹介していたが、白いズボンに黒っぽい上衣を来て、帽子をかぶっている姿は、何とも凛々しく格好いい。プラカードに続いて各国選手団が行進曲に乗り、国名のアルファベット順に続々と姿を現わす。大選手団の国もあれば、一人だけの選手団もあり、ブレザーをユニフォームにしたもの、民族衣装を纏った姿もある。白人も黒人も黄色人も、人種に関係なく満面の笑みで手を振る。小生は人種差別には当然反対するが、皮膚の色の違いを克服して差別なく付き合うのは難しいだろうなと、当時中学生ながら思っていた。宮崎の片田舎に住んでいた訳だから、外国人と接触する機会はなかったが、ただ例外的にキリスト教会の牧師として白人一家が住んでいて、時折見かけた。とにかく上品に見え、日本人とは別格の高等な人種に思えた。黒人はいなかったが、逆に黒人の一家を見たならば、蔑んだ目で見たに違いない。そんな程度の小生だったけれども、入場行進の様子を見ていて、ベートヴェンの『第九』ではないが、人類みな兄弟、人種差別をしてはならないと、なぜか納得させられてしまう。いろいろな国、いろいろな人種の人々が日本にやって来て、その姿をテレビで見ることで、共同して平和の祭典をやろうという仲間意識が強くなったせいだろうか。各国選手団の入場行進は延々と続いたが、退屈することはなく、次はどんな国が現われるのかワクワクし、興味が尽きなかった。ネパールの国旗が長方形ではなく、山々のピークを模した三角形のギザギザしたものであることをこの時知った。しかし、何といっても、超大国であるアメリカとソ連の大デレゲーションは圧巻であり、フランスの選手団にはエレガンスを感じたから不思議である。

 最後に、日本選手団が登場した。プラカードを持った防衛大学生の姿が見えた途端、それはそれはもう、国立競技場が割れんばかりの大声援と拍手の渦である。白いズボンとスカートに赤いブレザー、白い帽子をかぶった選手団が整然と列をなして、観客席に向かって手を振っている。開催国だから、大選手団である。何故か知らないが、その様子を見て、小生も日本人だからなのか、ジーンとくる。日本選手団のプラカードを持って先頭を歩いているのは、勿論、防衛大学の学生である。実は、この学生は小生の母校になる高鍋高校の先輩であり、そのことは当時高鍋町内で大きな話題になっていた。白黒テレビの画面は、今の大画面テレビと異なり小さかったので、歩く様子はよく見えたものの、顔まではよく判別できなかった。しかし、プラカードを持った先輩、そして選手達が堂々と歩く姿は長々と映し出され、いつまでも大声援と大拍手は鳴り止まなかった。

小生には、不思議な錯覚がある。昔の記憶とか夢はほとんど白黒の世界になることが多い。でもこの開会式を小生は白黒画面で見ていたのだが、小生の記憶の中では国旗や服装、衣装、その他諸々が色鮮やかなカラーになっている。なぜだろうか? それは多分、オリンピック後に見た雑誌などのカラーグラビア写真、市川崑の記録映画などが影響しているのであろうか。とにかく、白黒の世界が天然色の世界を見たような錯覚を与えたのであろうが、白黒の世界であっても、鮮やかに開会式を感じていたのだから、人間の能力に驚く。

 全選手団の入場が済むと、さっそく式典の開始である。挨拶やオリンピック旗の掲揚などなど粛々と執り行われたが、小生が鮮烈に覚えているのは、天皇陛下の開会宣言、小野選手の選手宣誓、坂井義則による聖火台点火である。

 天皇陛下は正面スタンドの貴賓席に立ち、あの独特な言い回しで、“ダイジュウハッカイ、トウキョウオリンピックヲ ココニ カイサイスルコトヲ センゲンスル”という開会宣言だったが、そのゆったりした声の響きが今でも耳にこびり付いている。昭和時代の前半は戦争に明け暮れていたが、戦後、世界の国々の人々を集め、それを前にして、平和の祭典オリンピックの開催を宣言されたのだから、天皇陛下にはどんな想いが飛来したのか、感無量以上だったに違いない。

 “鬼に金棒、小野に鉄棒”というフレーズが、1964年当時流行っていた。小野は日本体操の選手で、メルボルン、ローマとオリンピックで活躍し、1964東京五輪では勿論メダルが期待され、日本体操の主将であるとともに、日本選手団の主将でもあった。それだから、その当時の日本では、小野を知らない人はもぐりになる。その小野が、各国の国旗に取り囲まれ、日本の国旗の裾を握りしめて、正面スタンドに向かい、高らかに堂々と宣誓したが、そのカッコイイ姿は、瞼に焼き付いている。

 そして、開会式も終わりに近づき、国立競技場に聖火が入ってくる。坂井義則の持ったトーチには聖火が燃え盛っており、この聖火の炎は、先月故郷の高鍋町の国道10号線で見た聖火が受け継がれたものだと思うと、親しみが沸き、ジーンと来る。彼はトラックを走った後、聖火台に向かって長い階段を駆け上る。坂井は聖火台の脇に立つと、競技場を一瞥するように眺めて聖火を高らかに掲げ、そしてゆっくりと聖火台に向く。聖火を運んだ多くの若者の想いを確認するかのように、聖火台の上にトーチをやると、聖火台に火が燃え移った。勿論、どよめくような大歓声と拍手が沸き上がる。国立競技場の上に広がった青い空には、航空自衛隊のアクロバット飛行隊である“ブルーインパルス”が、F86ジェット戦闘機5機を使って5色の雲を出して、五輪のマークを見事に描いた。これが簡単そうに見えて、実は高度な技術を要したということを最近のテレビ放送を見て知った。当時、勿論白黒テレビで見ていたのだが、これもやはり色が付いていたように覚えているから不思議だ。

 その後、マスゲームや様々な催し物が競技場内で行なわれたが、やはり目の色を変えてテレビを見ていたのは間違いない。だがしかし、こちらの方は、どういう訳か、全く記憶に残っていないから不思議だ。

 この開会式の夜は、東京の街中では、どこでもお祭り騒ぎであったに違いない。小生は、そういう場に居合わせて美酒を飲みたかった、と今になって思う。