「おもしろき こともなき世を おもしろく」


高杉晋作


人間なら誰でも「人生の波」を感じると思う。


調子がいい時も悪い時もある。


調子が悪い時、そういう時は何もやりたくないし、何やっても俺はだめだ、、、と思ってしまう。


「そんなんやっても結局は意味ないかもよ」


そういう声が頭の中で響く。


なんて恐ろしい考えなんだろう、、、


「自分がやっていること、周りのやってることは無意味、全部諦めちゃえよ」


足元が崩れる思いがしないだろうか、、、


「そんなに勉強・仕事してバカじゃないの?そんなのがんばったところで意味ないのに」


「いい成果を収めたところで、それでなんなの?意味ないのに」


「そんなバカみたいに遊んでなんなの?時間を無駄にして」


「そんながんばったところで、そんなんで最終的に嬉しく思えるの?」


これらの思いに対抗するような考えを俺達は頑張って信じようとしてしがみつく。


夢に向かって努力することはいいこと。


身を削って仕事を一生懸命することはいいこと。


自分に投資して将来給料のいい仕事に就くことはいいこと。


他人に尽くして色々な活動をすることはいいこと。


こういうイメージはテレビやメディア、上辺だけの世間話。


いたるところから拡散されている。


じゃあ、なぜこれらのことはいいことなのか?


なぜみんな馬鹿みたいに中間の過程を飛ばして、これらと「いいことである」ということを


イコールで結ぶのか?


たぶん俺が言いたいことは、


なぜここまで「努力」が美化されているのか?


これに対して俺が今日の時点で考えている恣意的で自分勝手な答えは、、、


「人生の無意味さへの抵抗」


まず、本や小説などのフィクションがこれのわかりやすくいい例だと思う。


私たちは、フィクションが好きだ。ストーリーはエンターテイメントとして人々に


感動、笑い、悔しさ、憧れ、悲しさ、恐怖など色々な感情を引き起こさせる。


なぜだろう?


現実の「ストーリー」ではだめなのだろうか?


エンターテイメントとしてのフィクション作品は、ある「感情」をターゲットし、


それを客に与えるのであって、客は自分の購入した「感情」を大体わかっている。


コメディーっぽい題名で宣伝で、実際見てみたらホラーだった。


なんて言ったら、クレームの嵐だ。お金を返してほしいと消費者は言うだろう。


もうひとつ理由としては、現実には「落ち」はない。


「区切り」もない。


わかりやすくしたテーマもないし、起承転結もない。


ストーリーだとしたら、


人生は、ひとつの長くて、テーマ性のない、起承転結もない、だらだらと続く「ストーリー」なのだ。


映画の中のひとつひとつの行動や出来事は、ある心を揺さぶる最終的な効果を


創り上げるために意味があると言ってもよい。


そこでは、すべてのものが意図的に配置され、事件を羅列されている。


人が作る限り、それは絶対だ。


意味もなくに挿入された場面や行動があれば、それは「意味のない場面」として意図されて入れられている。


現実の人生の中では、


すべての物事の発生は、ある効果を期待されて外部から意図されてのものではない。


事件や行動には意味はない。


実際には物事が起きる基準は、誰かの心理的な感情のためではなく、


起きるから起きるのであって、つまり、理由はない。


そういう意味では、「世界は無意味である」と言えると思う。




ただし、その「無意味な」物や出来事に対して人間は感情的にとらえ、


「意味」を与える。


それは、「悲しいこと」「嬉しいこと」「望ましいこと」「怨むべきこと」「称賛されること」「軽蔑されること」


「自業自得なこと」「起こるべきではないこと」「因果関係に沿ったこと」「矛盾し唐突に起こること」


それらは、単にそうなったからそうなっただけの物事や出来事に対する人間の感情、つまり意味づけ。


そういう意味では、「世界は、意味に溢れている」と言える。


評価する人間がいる限り、世界は意味を持ち続ける。


こう考えるならば、この偏見と勝手な意味づけに溢れた「意味のある世界」は、楽しいものだ、と思える。


そして自分も積極的に世界を意味づけて、この無常で時には残酷な世界に


わかりやくテーマ性溢れる意味づけをしてやろう、と思える。


他の人も、人生に対する考えで同じような結論として(その過程の理論はみんな違うと思う)


「つまらない世界だけど、どうせならこの茶番の中で精いっぱい楽しんでやるよ」


っていう気持ちをもってると信じてる。


そこで最初の名言につながる。


「おもしろく ことなく世を おもしろく」(生きる)


俺が受け取った意味としては、


①みんなこんなクソみたいな世の中で生きていくのは嫌だけど、


どうぜ生きていくなら楽しんで生きていこうぜ


②こんな無意味な世の中に面白いことを増やしてみんなが楽しめるような


面白い世界に変えてやる


勿論、他にも色々な受け取り方があると思うし、正解も間違いもないと思う。



「世の中を楽しむ姿勢」は大事だと思う。


世の中に絶望しながら、世の中を楽しむ姿勢は、両立できる。


「無常」で、真実なんか存在しない無意味な世の中で、


世の中を自分自身も楽しもうとすると同時に、他の人や子供たちに「楽しい世界」をつくってあげるのは、


責任ある人間には義務であり、誇れるべきことだと思う。


そして、楽しいことにすることもできると思う。


自分が楽しく生きることを意識することで周りの人も楽しい気分になるでしょう。


みんなが「社会のために」といって仕事に全力を尽くし、疲れて不幸になっているのなら、

社会のためになっていないですよね。

その人たちが社会でもあるのですから。


「社会のために」働いている人も楽しまないといけません。


勉強や仕事をする、社会のために何かをするということは、


面白き事なき世の中にもうひとつ「おもしろきこと」を提供することであり、


「おもしろき世界」を創り上げることに貢献するということだと思う。






こういうときはどうするか?


理屈っぽい性格の自分は、自分の納得のできる哲学や理論のようなものを作り上げようとする。


悪くいえば、言い訳。良くいえば、なんだろ、理論とか哲学とか。


まず、憂鬱に対抗するためにこの方法を使うことは、確かに効果的である。自分には。


人間少なからず思い通りにならない現状を受け入れるために妥協をするが、


その時に自分の考えを少なからず曲げる。


そして、現実を生きやすいように理屈を作り、考えを曲げる。


それを信じようとする。


時には意図的に、時には無意識的に。


そして、これは度を越さない限り、責めるべきことや恥じるべきことではない。


と思っている。




たとえば、使い勝手のいい理屈というか自分の生きる信条としてよく考えているのが、これ。


「自分が幸福にならなくていいと思うことが幸福になることへの第一歩」


「自分の悩みや苦しみを取り除けたところで、世界はまだ不幸と苦しみであふれているから、


周りの人を幸せにしましょう」


「自分が幸福になるのがそんなに難しいのなら、他の人の方が幸福になりやすいのなら、


どうせならその人たちを幸福にしてあげよう。そして、その幸福を自分のもののように喜ぼう。


その過程の中でもし自分が幸福になれたとしたのなら儲けものだと考える。」


「自殺したいと思うということは、自分はどうなってもいいと思うこと。


だったら、自分はいったん死んだと考えて、自分の気持ちを捨てて


人生を他の人の役に立つために使えばいい。


そこで、やっぱり生きて良かったと思えれば、儲けもの。」





なんだ、偽善者か。って思われるかもしれないけど、


いい人だと思われたい、とか、世界平和を願う、とか、そういうこととちょっと違う。


もし5年前の自分がこんな言葉を見たら、気持ち悪くなると思う。


いい子ぶっちゃって何言ってんだ、っていうリアクションをするだろう。


その時は、自分はなんでみんな偽善者的なこういう考えをするのか、


全くわからなかった。


でも、今は考えが変わった。


理由がわかった、と思う。


ずばり、それは、そっちのほうが生きやすいから、現実を受け入れやすくしてくれるから。


子供から大人になるにつれて、いろいろと嫌なことがある。


自分の場合でいうと、自己嫌悪や不安感や空虚感、


やらねければいけないこと(仕事、勉強)への煩わしいさ、


周りに遅れていないかという焦り、


交友関係、恋愛関係(の欠如w)、家族との関係。


もちろん、誰にでも少なからずこのような問題はある。と思う。


が、当の本人はこれらの小さい問題で参ってしまう。


とても幸福じゃない、毎日がつらい、と思う人も多いと思う。


そこでだ。


この偽善者の考えがなかなか使える。


利他的な考え。自分よりも他人を優先する考え。


これを自分の頭にインプットして、ハード自体に組み入れることによって、


自分が疲れても不幸でもその現実を受け入れることができる。


別にそれでいいじゃん、この現状で。と思える。


だからどうしたって?


だから、自分を幸福にしようとする努力をやめることができる。


つまらない毎日をそれでいいんだって受け入れることができる。


何かで失敗、何かでうまくいかない現実を受け入れることができる。


そう、生き残るのは、強い種でも大きい種でもなく、


環境に適応できる種なのだから。(決め台詞的に)




ニーチェは、言っていた。弱者のためを思って弱者を助けるべきではない。


徹底的にたたきのめして、現状を打開し這いあがれる可能性をゼロにするべきだ。


そうすることによって弱者は現実を受け入れることができて、


その状態が普通だと思い、這い上がることを諦めることができる。


弱者を怒りや妬みや苦しみから救うことができるのだと。


たとえば、アフリカの貧しい人々も先進国のことを全く知らなければ、


なんの劣等感も妬みも不幸も感じないだろう。


私たちが勝手にかわいそうだ、寄付して助けるべきだ、と言っているだけで。


その行為は、自分の優位を相手に見せつけ、相手ももっと苦しませる原因になるというのに。


良く考えれば、弱者を強者の立場に近づけるべき、だと誰が決めたのだろう。


一旦人間としての権利は平等であると思ったら、少しでも自分よりも強い者を


妬み、その位置を欲して苦しまなければならないというのに。



話を戻す。


だって、飲み会とかばんばん行くような人気者になりたいと思ったところで、


あんまり知らない人を話すことは、一応できるけど、すごい疲れるとする。


そしたら、そんな目標捨てちまって、家にいるほうが楽なら家にいればいい。


弁護士になりたいと思ったところで、大部分の受験者は残念ながら、


受からないが、ならチャレンジしたあと諦めなければならない。


一生受験し続けるわけにはいかないから。



大事な考えは、


理想の自分と現実の自分が全然違っても大丈夫。


理想の自分になって幸福になることなんて幻想だから。


人生は適当に頑張って適当にテキトーに生きる。


自分の欲望は底知れない。一つ一つ追い求めていたらきりがない。


しかし、私たち人間はどうしても追い求めてしまう。


勉強だったり、仕事だったり、人間関係だったり、恋愛だったり、スポーツだったり。


この考えを転換するのが、利他的考え。


これをある程度信じ込めることができたら、どうだろう。


自分は二の次になるから、欲望を追い求めないでいい。


相手が勝手に欲望を必死になって追い求めていて、もし何かを獲得できたら、


自分のことのように喜ぶ。


相手が必死になって頑張って、だけども、悪い結果となった時は、


自分のことのように苦しむ、、、ことは実際できない。


そうとう仲のいい友達や家族じゃない限り。


だから、心配しないでいい。


よほど、偽善者上級者なら他人の苦しみも自分のもののように感じてしまうだろう。


そこまでいったら偽善者じゃないかもしれないが。聖者、、、みたいな。


でも、要は、この利他的な考えは、本質的には実用的なものであり利己的なものである。


みんな信じようとしているだけで、本気で利他的な人間はほとんどいない。


信じた方が楽だからそうしてるだけ。


ということが言いたかった。


客観的にこの意見を聞くと相当ひねくれてるんだろうなw


面白いのは、最初の方に書こうとおもっていたことは、


人間は理屈で気分はあまり左右されない。


やっぱり動物である人間は、感覚的なもの、音楽や食べ物、飲み物やにおい、


そういうもので簡単に気分は変わる。


落ち込んだら、一番効果的ですぐに効くのが、好きな音楽を聞いたり、


好きな芸能人をテレビで見たり、いい匂いのアロマかなんかやったり、


アルコールを摂取したりw


そういうことが一番いい。


メンタルの状態はフィジカルの状態に大きな影響をうける。


たぶんみんなが思ってるよりも大きな影響を。


鬱への対策


人間の感情には波があると思う。

人生にも波があると思う。

良い時があれば、悪い時もある。楽しくてしょうがない時もあれば、死にたくなる時もある。

完璧に幸せに生きている人は、あんまりいないと思う。

でも、それは当たり前。


悲観的かもしれないが、人間の欲望(よくいえば向上心)は底知れない。

今よりもいい状況にひたすら自分を持っていこうとする。

それに終わりはないだろう。

しかし、それは悪いことばかりではないのは言うまでもない。

向上心があるから社会の歯車となって働ける。

支配欲があるから政治家になれる。

金銭欲があるから会社を経営できる。

社会は、個人の欲望をうまく組み込んだシステムを形成した。

資本主義では、社会への貢献度によって報酬が加減する。

あるものは、一生働く必要もなく生きて、

あるものは、どうしようもない貧困の中でもがきつづける。

結局どっちにしろ同じゲームをプレイしなければならない。

生き残りをかけた社会貢献を強制するシステム。

「努力」を称賛して社会のうちに個人を組み込むシステム。

結果によって報酬が天から地まで変わるシステム。

(ほとんどの)人々は何の疑問もなく会社に使い倒され、

日頃の仕事にそれなりの充実感を感じつつも、

忙しい生活の中で忙殺されていく。


このように、現状にちょっとした疑問を感じている。

なぜわざわざ人は死ぬほど働いているのか?

実際に過労死する人はいるし、それまでいかなくとも、

働きすぎて気付いたら人生が終わっていた。

家族ももたずに退職後に一人で暮らす老人。

死んだのにも誰にも気づいてもらえない人。

孤独死とかいうんだっけ。


要は、なぜそこまで仕事をする必要があるのか?

これから仕事をするであろう自分にはまだその点がきっちりと理解できていない。

つまり、言いたいことは、

生活費が稼げる程度の仕事をこなせばいいじゃないか。

一流の企業なんて行きたくもない。

いい会社だからっていって銀行も行きたくない。

退屈でしょうがないだろうし、仕事もつまらないだろう。


やりがいの方が大事じゃないか?

いくら金をもらってもそれで自分の魂が削られてなくなっていくなら、

そんな仕事はやりたくない。

たとえ、どんなに大金持ちになれたとしても、その仕事にとっていかれた

時間はもどってこない。

たとえば、大金持ちにしてあげる代わりに人生の50年を奪われるなら

あなたはそのオファーを受けるか?

現在、20歳なら一気に70歳になる。

しかし、それからは死ぬほどの金で遊べる。

でも、しかしそれでも、あなたの50年は、安く買われただろう。

貴重な時間を50年分。


よく人生をマラソンに似てると例えるが、

それのもうひとつの意味を理解できた気がする。

今までは、俺は人生は長くて辛くて、でも楽しいこともある。

ゴールした時には、全部良かったと思えるだろう。

そういう意味として受け取っていた。

でも、もう一つの意味として

「プロセスが大事」

と受け取ることもできる。


マラソンランナーは、一人で走っているわけではない。

競争相手がいる。

ぶつかって嫌がらせをしてくるうざい奴もいるだろう。

死んでもいいと思う奴らもいる。

詐欺をしたり、人をだまして生きているやつら。

実際、あったこともある。

でも、なかなかいいライバルもいるだろう。

あそこのチェックポイントまでは俺が先にいってやるぜ。

なんて言われて抜かれてもあんまり気になんない感じのいいやつも。

そいつらに抜かれたり、追い越したりするのは、

案外楽しいかもしれない。

他には、長いマラソンで少しの間しか

一緒に走らなかった知り合い程度の人もいるだろう。

ちょっと身の上話をして、仲良くなりかけて、

また会おうと言ってきり、一生もう会えなくなってしまう人。

俺の場合は、九州を自転車で縦断した時に出会った、

やさしい人たちがそのタイプの人たちに含まれる。

彼らは、自分のマラソンを終えた元選手かもしれない。

もしくは、まだマラソンを走っているかもしれない。


マラソンには坂もあれば、下り坂もある。

調子にのってペースを上げたり、

遅いペースであきらめそうになることもある。

もちろん、観客もいる。

同じベクトルに向かって走っていない人は、応援してくれるだろう。

水を差しだしてくれるかもしれない。


そして、最後にゴールした時に大事なのは、

絶対に走ってよかった、完走できてよかったで思うこと。

人生の最後での「SATISFACTION」を得ることができたかどうか、

それが大事。

それは、マラソンというプロセスがあったからこそのもの。

自分の一歩先にゴールだけあっても意味がない。

見えない平原の果てにゴールがある。

そこをでこぼこ道を通り、山を越えて。

支持者に応援してもらって。

ライバルと競って人生をゲームのように楽しんで。

敵と共に肘でつつきあいながら、相手がレースから

一刻も早く落ちることを望みながら。

誰のでもなく自分の足で地面を踏みながら。

時には休みながら。

時には汗だくになって。

死ぬほど苦しくても。

永遠に続いてほしいほどの幸福感を感じても。

次に進み。

そしてゴールする。

最後まで、競争するかもしれない。

最後は、順位なんて関係ないことを気付くかもしれない。

最後は、敵に転ばされるかもしれない。

最後は、敵はいいライバルだったことに気付くかもしれない。

唯一確実なのは。

最後には、マラソンを走ってよかったと思うこと。

そう思えるような人生を送ってみせる。

絶対に。

だから今も走り続ける。

どこにも向かってないように見えても、

後戻りにみえても。

人間は、ゴール(人生の終わり)に向かって

進むことは避けられない。


「すべての存在を肯定したうえで、最終的に自分を肯定できる人生をおくる」


負けるのは、立ち止った時でもない。

ちょっと休憩したときでもない。

後戻りしたときでもない。


負けるのは、棄権するときのみ。


敵が襲ってくること、

つまり、辛いことが起きることや人が不条理に自分を攻めること、

道理のない利己的な行為をすること、


それらが存在していることを肯定する。

そのうえで、それらの行為自体はおかしいことだと否定する。


不条理を当たり前だと思うこと。

そしてそれに真っ向から対抗する自分を当たり前だと思うこと。

悲しいことがあってもいらだたしいことがあっても、

それは当たり前、マラソンにはつきもの。

それを俺が克服することも当たり前。

小さい問題は忘れて。

大きい問題は解決させる、道理なく攻撃してくるものには

当たり前のように対抗する。


世界には、不条理で悪意のあるものが多く潜んでいる。

それを忘れてはならない。

それに対処することも忘れてはならない。

世界には、精神的に辛いこともあふれている。

それを忘れてはならない。

それを克服することも忘れてはならない。


それらは、最初から人生という商品の説明書に書いてあるのだから。

それを理解してないなら人生というものはあなたには合わないだろう。

おいしいところだけもらうことはできない。

人生というものを利用するまえに、人生の基本事項を説明する契約書にサインしたはずだ。


もししてなくても、大丈夫。

決意のサインはいつでもできる。

俺だって、したかどうか忘れたから、またここにサインをする。


「敵対的な行為を当たり前なものとして受け止め、

それに対抗する自分を当たり前だと思う。」


強く生きる力、自分を守る力、壁を乗り越える力、、、