イビチャ・オシム | ☆ファンタジスタ☆

イビチャ・オシム



イビチャ・オシム

(Ivica Osim,、本名 イヴァン・オシム、1941年5月6日 - )

旧ユーゴスラビア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ出身のサッカー選手、指導者。


2003年よりJリーグ ジェフユナイテッド市原(2005年シーズンからジェフユナイテッド市原・千葉に改称)の監督を務めた。


在籍4年目の2006年時点でJリーグ最年長監督であったが、代表監督就任要請を受け辞任。同年7月21日、日本代表監督に就任した。

★監督経歴★


1978年 - 古巣ジェリェズニチャルでコーチの仕事を始める。ユースチーム監督就任。


1979年 - ジェリェズニチャル トップチームの監督に昇格。


1982年 - 副業的にユーゴ代表チームのアシスタントコーチを務めるようになる。チームはロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得した。


1985年 - ジェリェズニチャルの監督としてUEFAカップ準決勝まで駒を進めるが敗れ、決勝進出を逃す。


1986年 - ユーゴ代表監督に就任。


1987年 - 翌年に行われる欧州選手権の予選最終戦、イングランド代表に1-4で大敗、本大会出場を逃す。


1990年 - FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。大会後、代表監督のままパルチザン・ベオグラードの監督も兼務することとなる。


この後ユーゴスラビアの分裂が決定的となる。


1991年 - 翌年の欧州選手権の予選通過を決めていたが、この年の夏にスロベニアとクロアチアが連邦から離脱、両国の選手抜きで本大会に臨むことになった。


1992年 -


3月27日 - ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦離脱を受けて、ユーゴ軍がサラエボに侵攻。オシムは直前に仕事のため次男を伴いベオグラードに赴いたため戦火を免れる事が出来たが、夫人と長女はサラエボを脱出することが出来なくなった。


5月21日 - サラエボ侵攻とユーゴ分裂に抗議する意味を込め、パルチザンとユーゴ代表の監督を共に辞任。この後、国連の制裁決議を受けて欧州サッカー連盟(UEFA)、国際サッカー連盟(FIFA)はユーゴ代表チームの国際大会からの締め出しを決定する。


1992-1993年 - ギリシャのパナシナイコスの指揮を執る。この間戦火のサラエボに夫人と長女を残してのギリシャ赴任であった。


1993年 - オーストリアのSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。翌1994年、夫人・長女との再会を果たす。グラーツではUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。


2002年 - グラーツ監督を辞任。


2003年 - ジェフユナイテッド市原監督に就任。


2005年 - ジェフユナイテッド市原・千葉にてJリーグヤマザキナビスコカップ優勝。


2006年 - 日本代表監督に就任。


★監督としての実績・評価★

☆ユーゴ代表時代☆


オシムは、ユーゴスラビア紛争終結後もわだかまりの残る旧ユーゴ構成諸国家内各民族の間で、今なおどの民族からも尊敬を集め得る人物の一人であるといわれている。これは数々の困難を乗り越えてユーゴスラビア代表に栄光をもたらした功績によるものである。

彼が代表監督に就任する直前のユーゴ代表は、チトーの逝去に伴う各民族のナショナリズムの勃興に並行するような形で、試合の開催場所によってチームの構成が大きく変わる有様だった。

つまり、ベオグラードで試合をする際にはセルビア人中心の構成に、ザグレブで試合をする時はクロアチア人中心の構成にといった具合にである。

オシムはこうした民族的な配慮を排除した上で、必要ならば11人全員をコソボのアルバニア人で揃えると言って憚らなかった。

完成したチームは日本でも有名なドラガン・ストイコビッチ、のちにACミランで10番を背負うデヤン・サビチェビッチ、スレチコ・カタネッツらを擁したスター軍団であった。

1990年ワールドカップ当時、各民族のスターばかりの、チームとしてのバランスや総和を無視した起用を強いようとするマスコミに対して、オシムは初戦ドイツ戦で敢えてその通りの起用で敗戦を見せ、次の試合ではオシムの考える本来のチーム編成で勝利した。

これによりマスコミが大人しくなっただけでなく、ユーゴスラビア国民も民族エゴ丸出しでは良くないと知ったのである。

以降は勝利を重ね、準々決勝でマラドーナを擁するアルゼンチン相手に1人欠きながらも120分間無失点のドローに持ち込み、PK戦で敗れた。

オシムが作り上げた最後のユーゴ代表は、1990年のワールドカップでは準々決勝で敗退したものの、2年後の欧州選手権では優勝候補の1つになるであろうという評価を得た。

1991年にスロベニアとクロアチアが連邦を離脱した後も、欧州選手権出場に向けた努力は続けられた。

チーム内にも各民族間の対立が持ち込まれ、チームの団結維持に多大な労力を必要とした連邦末期にあってもその姿勢は変わらなかったが、やがて国の解体に合わせてユーゴ代表も崩壊した。

1992年の欧州選手権にユーゴが出場できていれば優勝していたであろう、と言う者は現在も多い。

★グラーツ時代★


パナシナイコス退団を表明すると、レアル・マドリー、バイエルン・ミュンヘン、代表監督としてクロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ等への就任要請があったが、オシムはその全てを断わり、グラーツへ赴いた。

グラーツはオーストリアの第2の都市でありながらサッカーはどちらかといえば他都市に遅れを取っていた。

オシム就任以前はオーストリア・ブンデスリーガの中位から下位に甘んじ、かつ財政難の状況にあったSKシュトゥルム・グラーツだったが、オシムはこのクラブに規律と戦術を持ち込み、無名の若手を起用して当時オーストリアリーグでは一般的でなかった走るサッカーを実践した。

クラブは徐々に成績を上げていき、まもなく優勝候補の常連となった。

就任2年目となる1995-96年シーズンにはリーグカップ優勝、そして4年目の1997-98年シーズンにはリーグ優勝を果たした。

この時のメンバーには後にジェフ千葉に移籍することとなるマリオ・ハース、名古屋グランパスエイトでプレーしたイヴィツァ・ヴァスティッチがいた。

特にクロアチア出身である後者はオシムの指導で飛躍的な成長を遂げ、オーストリアリーグを代表する選手となった。

グラーツでの名声を確たるものとしたのは、2000-01年シーズンの三度目のチャンピオンズリーグへの挑戦である。

グラーツは1次リーグでレンジャーズ、ガラタサライ、モナコと同組に入り、これを首位で通過。

2次リーグでバレンシア、マンチェスター・ユナイテッド、パナシナイコスと同組で3位となり決勝トーナメント進出はならなかったが、この活躍は評価に値するものであった。

しかし、主力を放出していくうちに年々成績を下げ、最後は二人三脚で名声を築いたはずのカリスマ的オーナー、ハネス・カルトニッヒと対立した状態となり、2000-01年シーズン終了後、クラブから追われるように辞任して去った。

カルトニッヒとは給料不払いなどの契約問題および名誉毀損問題で裁判沙汰となり係争中である。(給料不払いについてはオシムが勝訴)

★ジェフ千葉時代★


グラーツを去った後、オシムは新しい挑戦として日本にやってきた。

肉体面では「走力」、精神面では「哲学」の二面的アプローチ、「賢く走る」「危険なサッカー」をキーワードとした指導で、降格危機・低迷から脱したジェフ市原をさらに改革した。

2003年、当時21歳の阿部勇樹をキャプテンに抜擢、1stステージで初優勝王手まで勝ち進む。

しかし首位攻防戦となったアウェイ静岡2連戦で13節:ジュビロ磐田戦に引き分け、14節:清水エスパルス戦ではプレッシャーによる大敗を喫したことにより、王手をかけながらも初優勝を逃した。

また2ndステージでは14節:大分トリニータ戦で引き分けたことにより、実質的な優勝の可能性を失った。

しかし1stステージ3位・2ndステージ2位・年間通算成績3位とクラブ最高の成績を記録。

そのサッカーは多くのサポーター、サッカーファンを魅了し、彼の名声を高めることになった。

2004年、崔龍洙、中西永輔を放出し、経験・身体的に弱い若手中心となり、戦力ダウンは避けられないと見られていた。

又、この年は主力選手の怪我も重なった。

しかしながら結果としてタイトルは取れなかったものの2ndステージでは2位、年間通算成績は4位と前年とほぼ同等の成績を残すことができた。

資金・選手層に乏しいジェフにおいて、この好成績は、オシムの監督手腕の高さによるものと評価されている。

2005年、村井慎二、茶野隆行、サンドロ、マルキーニョス、ミリノビッチを放出したが、巻誠一郎が日本代表に初選出、水野晃樹、水本裕貴が、ワールドユース出場を果たすなど、頼もしい存在に成長した事で戦力低下を感じさせなかった。

ヤマザキナビスコカップでは準決勝で浦和レッズを倒して決勝戦に進出。

決勝ではガンバ大阪と延長、PK戦と激闘を制しチームに初のタイトルをもたらした。

戦術的には「古い」「時代遅れ」と言われる3バック、スイーパーシステム、マンツーマンディフェンスを用いるが、日本の事情に合わせて採用しているという説もある。

2006年、以前から試験的に採用していた2バックを実際に使用しているが、これは単に選手名鑑でDF登録されている選手を2名だけ起用しているにすぎない。

対戦相手を鑑て、当日のサッカーを決めるということは変っていない。

シーズン途中の7月に代表監督への就任が決まり、監督を辞職。




★日本代表監督★

☆人選☆


代表戦の度に積極的に新戦力を召集しており、前監督ジーコが在任後半に、決まったメンバーを重視していたのとは対照的である。

アテネ五輪予選・本選に出場したいわゆる「谷間の世代」の選手ではオシム政権になってから田中マルクス闘莉王、鈴木啓太が抜擢され、中軸選手として重用されている。

またそれ以下の世代の若手(北京五輪を目指す世代)も相次いで召集されている。

ただし、オシム自身は「代表は試合ごとにコロコロとメンバーを変えるものではない」と考えており、現在はさまざまな選手をテストしている時期だとも考えられる。

実際に、ユーゴ代表時代はかなり固定化されたメンバーで戦っていたのである。

FWの人選においては所属クラブでの調子・実績を重視しており、この点も代表チームでの実績・序列を重視したジーコと大きく異なる。

FWには我那覇和樹、播戸竜二など好調な選手が相次いで召集されており、逆にジーコ政権時代に重用された柳沢敦・玉田圭司などは所属チームでの得点が伸びないこともあって外されている。

中村俊輔、松井大輔などヨーロッパのリーグでプレーする選手(いわゆる海外組)については、所属クラブでのプレーを優先させ成長を促す意味で、2006年は一度も召集することはなかった。

もっとも、ヨーロッパ遠征など、海外組のコンディションに影響の無い試合での召集の可能性をオシムは示唆しており、Jリーグでプレーする選手(いわゆる国内組)と海外組との融合によってどのようなチームが出来上がるのか、注目されている。

ジーコ政権下では一般にも知名度のあるスター選手が数多く召集されたが、南アフリカW杯を担う若手中心のオシム政権になってからは知名度の高い選手が少なく、代表戦中継のテレビ視聴率が下がっている。

そのためか、「オシムになってから代表の人気が低下した」と、一部メディアにはオシムの人選に批判的なものもある。


☆戦術☆


ジェフ千葉時代と同様、「賢く走る」ことをテーマに掲げている。

そのため、走力・スタミナはもちろんのこと、戦術理解力も重要視される。

就任1年目の召集選手にはジーコ時代から召集されていた阿部勇樹、巻誠一郎のほかに山岸智、羽生直剛というかつての教え子も多く含まれている。

これについては「教え子に対する贔屓」という批判の声もある。

代表監督が特定クラブから多くの選手を招集し、クラブでの連携をチーム作りに生かす手法は各国で取り入れられているが、国内トップレベルの強豪と言われるチームで行われるケースが多く、比較してジェフ千葉のように中堅~上位クラスのクラブから多くの選手が選ばれているケースは少ない

もう一つ特徴的な事項として、「ディフェンスの選手にもビルドアップの能力、攻撃力を要求する」というものがある。

2006年の最終戦となったサウジアラビア戦で起用された3バックはレギュラーに怪我人もあったことで、田中マルクス闘莉王、今野泰幸、阿部勇樹の3人であった。

今野・阿部はいずれも本職はボランチの選手であり、闘莉王もDFとしては攻撃を好む選手である。

彼らが攻撃参加をするためポジションチェンジする際、相手のディフェンスの的が絞りにくくなるという利点がある。

サウジアラビア戦の2点目も、攻め上がった今野のクロスを我那覇が合わせることで生まれた。

こうした場合、後方の選手が攻め上がった後に中盤の選手がカバーに入ることが重要であり、その能力に長けている鈴木啓太は全試合で起用されている。

オシムの練習には、多色のビブスを使いプレーに複雑な制限を課すメニューが多く、慣れるまではルールや目的の理解が難しいとされている。

特に就任当初は、選手ばかりかコーチ陣も混乱して練習がスムーズに進まない様子がしばしば目撃され、クラブで既に「オシム流」に慣れていたジェフ千葉の選手が指導役になった時期もあった。


★オシム語録★


質問者が不用意に「走るサッカー」について質問すると、オシムは「サッカーで走るのは当たり前です」と切り返す。

そうした場面が多々見られるように、試合後のオシムの記者会見や雑誌、新聞等に語られる彼の言葉は非常にウィットに富んでおり、サッカーが哲学的に語られる。

ジェフ千葉時代に、それがサポーター間やサッカー界ばかりでなく、一般紙や教育の現場などでも評判を呼んだ。

これが「オシム語録」と呼ばれるようになり、クラブの新しい名物として定着した。

試合後の会見では、単に質問者がからかわれている場面もまま見受けられ、オシムのコメントをストレートに紙面に掲載してしまうと、その真意を伝え切れないことになる。

また、市原まで取材に出かけた記者が半泣きで帰ってきた、という逸話が時々紙面に掲載されることがあったように、オシムは一部マスコミにとっては「インタビュアー泣かせ」の取材相手である。

このようなオシムとのやりとりによって、最初は面食らうばかりだった記者たちもまた「成長」する糧を得てきたのであり、また、原語を理解できる数少ないライター達の中には、質問の途中でおちょくるコメントをしたオシムに「最後まで聞いてから答えて頂きたい」と逆襲した者もいる。

そのような真摯な質問者に対するオシムの対応は、往々にして丁寧である。

なお、スポーツジャーナリスト以外への受け答えは温厚でありながら、非常に慎重である。

これはオシムが各所で語っているとおり、かつて経験したユーゴ内戦の時期に「マスコミが戦争を始めさせる」という様を見せ付けられてきたことに起因するものである。

オシムの日本代表監督就任以降、その動向とともに「オシム語録」もさらに大きな注目を集めるようになった。


★代表的な語録★


「ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出すときに肉離れしますか?準備が足りないのです」


「休みから学ぶものはない」


「アイデアの無い人間もサッカーはできるが、サッカー選手にはなれない」


記者から、初来日の東京五輪から40年、日本のサッカーはどのように変わったかと問われ
「大きく成長を遂げていると思う。だが問題は、君たちマスコミだ。40年間、まったく成長していないのでは?」


代表監督就任会見で、「2006ワールドカップでの失望[6]をどのように払拭するのか?」という質問に対して
「失望というのは、より多くのものを望み過ぎたからするものだ」


2006シーズン、勝てば優勝が決まる浦和レッズがFC東京と引き分けた試合について
「一生懸命探すニワトリだけが餌にありつける」