ズラタン・イブラヒモビッチ
ズラタン・イブラヒモビッチ
(Zlatan Ibrahimović, 1981年10月3日-)
スウェーデン・マルメ出身でインテル・ミラノ所属のサッカー選手。セリエA・インテル所属。ポジションはFW。身長:192cm、体重:84kg。愛称はイブラ、ズラタニオ、インジェニオ(天才)
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その大柄な体躯からは想像もつかないほどの繊細なテクニックを有しており、それを最大限に活かしたドリブルやボールキープ術で相手ディフェンダーにボールを奪われにくい上手さがある。
しかし、彼の最大の武器はその全てを高次元で融合させたポストプレーであり、インテルの攻撃は彼にボールを預けてから始まると言っても過言ではない。
テコンドーの経験者でもあり、そこからファンタスティックなアクロバティックプレーが生まれる、とは本人の弁である。
彼の課題は感情のコントロールと言われ、アヤックス時代は空中戦で競り合う相手に肘鉄を食らわせたり、交代を告げられると文句や負け惜しみを所構わず口にしてしまったりと、気性の強さがマイナス方向に働く事も多かった。
しかしユベントス所属時のファビオ・カペッロ監督の指導の下、改善の様相を見せており、以前のようにピッチ内外で問題を起こすことは少なくなってきている。
「イブラヒモビッチ」の名が示す通り、ルーツをバルカン半島に持つ彼は、スウェーデンに移住したボスニア人の父とクロアチア人の母との間に生まれた。
幼い頃から、4点ビハインドの試合で交代選手として投入され8得点を奪うなど、「単独で局面を打開出来る」選手として傑出した才能を示す。
1995年にスウェーデン屈指の強豪であり自身の地元のクラブでもあるマルメFFと契約し、1999年にトップチームデビューを果たす。
しかしそのシーズン、マルメFFはまさかの2部リーグ降格という憂き目に遭う。
主力選手が移籍していく中、イブラヒモビッチはこれを「レギュラー獲りのチャンス」と考え、その読み通りに翌シーズンレギュラーとして活躍。
26試合12得点の成績を残し、チームの1部リーグ復帰に大きく貢献した。
すると、この活躍を見たアヤックスやアーセナルなどのビッグクラブがイブラヒモビッチ獲得に乗り出す。
特にアーセナルはアーセン・ヴェンゲル監督が自ら背番号9を保証するなど懸命に獲得を試みたが、最終的には10代の選手としては破格の、そしてチーム史上最高額の780万ユーロ(約10億2200万円)の移籍金を提示したアヤックスに移籍することとなった。
そのアヤックスでかつてマルコ・ファン・バステンやパトリック・クライファート、ヌワンコ・カヌなど錚々たる選手たちが背負った栄光の背番号9を受け継ぐことになる。
ピッチ内外で度重なるトラブルを起こし、その素晴らしいプレーよりも問題児ぶりをクローズアップされてしまったものの、2001-2002シーズンのオランダカップ決勝で決勝ゴールを決めるなど徐々にチームの主力となっていく。
2002-2003シーズンもUEFAチャンピオンズリーグで4得点、エールディビジで10得点を挙げ、レギュラーの座を不動のものとした。
翌シーズンは足の故障のため3ヵ月欠場するが、復帰後は16試合13得点という抜群の決定力を見せ付けPSVアイントホーフェンからの王座奪回に寄与すると、この年にカペッロ監督を招聘していたユヴェントスが獲得を画策し、1900万ユーロ(約26億円)もの移籍金で活躍の場をセリエAに移すことになる。
当初は、アレッサンドロ・デル・ピエロ、ダビド・トレゼゲに次ぐ3番手のFWと目されていたが、2004-2005シーズンのセリエA開幕戦ブレシア戦でデビューし、早速ゴールを挙げると、トレゼゲやデル・ピエロの故障もあって、カペッロ監督の信頼を得始める。
彼らの復帰後もユヴェントスフォワード陣の柱となり、最終的に35試合16点の成績を挙げ、ACミランからのセリエA王座奪回に大きく貢献した。
2005-2006シーズンも2トップの一角としてトレゼゲと抜群のコンビネーションを見せ、ユヴェントスのセリエA首位独走に貢献した。
2006/2007シーズンからは、ユヴェントスの審判操作疑惑によるチームのセリエB降格の影響により、2460万ユーロ(約37億円)の移籍金で昨シーズンまでと同じセリエAの強豪インテルへの移籍が発表された。
★スウェーデン代表★
代表テビューは2001年1月31日のフェロー諸島戦である。
2002年日韓W杯の最終メンバーにも21歳の若さで選出されたが、グループリーグのアルゼンチン戦と決勝トーナメント1回戦のセネガル戦の2試合30分の出場にとどまった。
EURO2004の本大会からレギュラーに定着すると、グループステージ第1節のブルガリア戦でPKを決め、続く第2節のイタリア戦ではゴールに背を向けたままジャンプしながら踵でループシュートを決めるという美技を披露し、チームをグループステージ突破に導く。
準々決勝のオランダ戦、PK戦にもつれ込んだこの試合で3番目のキッカーとして登場するが、これを外してしまい、オランダに敗れてしまう。
2006年ドイツW杯欧州予選でも8試合8得点を記録し、スウェーデン代表として本大会への切符を手にした。
しかし、代表でも試合前の国歌斉唱中に他のメンバーが歌っているのにもかかわらず、彼だけチューインガムを膨らましているシーンがテレビで放送され、国民から反感を買うなど、代表でも問題児ぶりを発揮した。
本大会でも活躍を期待されたが無得点に終わり、チームも開催国・ドイツに破れベスト16にとどまった。
2006年9月の欧州選手権予選期間中に「規律を守らなかった」としてクリスティアン・ヴィルヘルムション、オロフ・メルベリらと共に同国代表を追放される。
★所属クラブ★
FBKバルカン(スウェーデン) 1989-1994
マルメFF(スウェーデン) 1994-2001
アヤックス(オランダ) 2001-2004
ユヴェントス(イタリア) 2004-2006
インテル(イタリア) 2006-