甲斐国(現山梨県)の豪族は気性が荒く内紛が多かった。現に父信虎公は長男晴信公に駿河国(現静岡県)の今川家に追放されている。
江戸時代に書かれた『甲陽軍鑑』によれば、信虎公は幼少期より文武に優れた信繁公を溺愛し、晴信公を廃嫡して家督を信繁公に譲ろうとした逸話が記されている。
父子の不仲に乗じて起きたクーデターだと思われ、国主の武田家の勢力が盤石ではなかった事の裏付けだといえる。
ナンバー2が目立ち過ぎて起きた悲劇としては、何と言っても源義経だと思われる。
兄、源頼朝の副将として平家討伐に出陣し、各地を転戦し源氏に勝利をもたらすも、頼朝の指示を蔑ろにして、逆に自ら討伐される羽目になった哀れな武将である。
時代は下克上である。親も子もなく、兄も弟もなく、主従もない。力ある者は己の力で、どんどん這い上がれた時代である。
そんな時代において、信繁公は兄信玄公に変わらぬ忠節を尽くした。
これこそ後世において『まことの武将』とよばれ、人気を博した理由ではないだろうか。
また、優れたナンバー2はナンバー1の意向にそうだけではなく、下の者の意見に耳を傾け、ナンバー1に落ち度があれば諌めなければならない。
すなわちナンバー1と家臣領民の間に入り、その関係が円滑に保たれるよう潤滑油の役目も担うのである。
武田軍は団結した一枚岩のイメージがあるがこれこそ信繁公の存在が鍵だったと思われる。
永禄4年9月10日、第4次川中島の合戦において、信繁公が37歳の若さで戦死すると武田家の瓦解が始まる。
信玄公の長男義信の謀反が発覚し幽閉される事件が起きたのである。
ナンバー1の力が絶大なため、これ以上発展はしなかったものの、信繁公存命時にはありえなかった事である。
優れたナンバー2を失う事が、いかに組織に悪影響を及ぼすかがわかる事例である。
