日本国防論 ~天下100年の計~ 補足 | 林尚智道のブログ

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様々な方の意見を聞かせて頂き、自身を更に研磨して行きたいと思います。皆様との出会いを楽しみにしています。

さて、前回の記事において食料の国防に関する問題提起を致しました。

 

この問題に、もう少し踏み込んで行こうと思いますが、その前に、前提となる私の考え方(価値観)の話をしておきます。

 

私の考え方(価値観)は、おそらく、現在の一般常識を基に考えると、中々ご理解頂きにくいかと思います。

 

ただ、一つの意見として「成る程、そういう価値観があるから、この様な意見になるんだな」と言う事はご理解頂けると思います。

 

ご理解頂く事と、賛同して頂く事は、全く別の事です。

考え方の多様性の一つとして、捉えて頂ければと思います。

 

以前投稿した記事も私の考え方を理解いただく事の参考になりますので、宜しければ確認願います。)

 

では、私の考え方(価値観)について、お伝えさせて頂きます。

 

皆様が良く耳にする言葉に「自然と共生する」や「地球環境を守る」とものがあると思います。

特に「守る」と言う言葉。

私はこの言葉に大いなる矛盾と偽善を感じます。

 

何故なら、守られているのは我々「人間」であって、「地球」は守る側だからです。

守る側と守られる側が逆なのです。

 

通常、「守られる側」は守られていないと、存在を確立出来ません。

そして、「守る側」は「守られる側」の存在の有無に関わらず、自己の存在を確立出来るモノでなければなりません。

 

地球にとって人間は必要条件でしょうか?地球から見れば、人間がいようがいまいが自己の存在に影響は無いですね。

しかし、人間にとって、地球は必要条件です。地球が無いと、存在出来ません。

 

私には、「地球環境を守る」と言っている個人や団体の方々が、まるで幼稚園児の男の子がお母さんに向かって「お母さんはボクが守るんだ!」と、言っている様にしか聞こえないのです。

 

私の考え方。

我々人間がもっと謙虚さを持つ必要があると言う事です。

その「謙虚さ」とは。

 

①我々人間は、地球,自然に「生かされている」「守られている」と認識する事。

②我々人間は、地球,自然の一部であり、人間が行う全ての事も自然の一部であると言う認識を持つ事。

→自然と共生すると言う表現を指摘しましたが、既に地球と言う「自然」の一部である人間が「共生」すると言う表現を使う事に「謙虚さ」が無いと感じますね。

③その地球と言うゆりかごの中で、他の生き物の「生(せい)」を頂き、生きていると認識する事。

※「生(せい)」とは、動物の命を頂くと言う事だけではありません。植物やその他、全ての生命活動や自然活動の恩恵を含めての事です。

この事は「生態系サービス」と言う言葉で表現出来ます。

④つまり、我々は地球の「中」の一部であり、外側にいる訳では無いと認識する事。

⑤そして、人間が地球上で特別な選ばれた存在なのではなく、他の全ての生物と同等、平等の存在であると認識する事。

 

その様な「謙虚さ」を持っていると、決して地球環境を「守る」などと言う言葉は出て来ません。

地球に生かしてもらっていると言う事に感謝の言葉は出るとしても。

 

「地球を守る」論が正しいので有れば。

仮にではありますが、地球の外側に我々(人間)がおり、地球を守れる存在だとします。

その守る側の人間は守るべき対象の地球環境に対して、影響を与えずに存在出来るでしょうか?

「守る」と言いながら、実の所、環境を更に悪化させる事に加担していないでしょうか?

 

本当に人間が地球を「守れる」存在ならば、守る対象の地球に対して、何の影響も与えず、悪化させる事も無いでしょう。

男の子とお母さんの例えを出しましたが、お母さんは子供がいなくても生活出来ますが、男の子はどうでしょう?一人で生きて行けるでしょうか。

 

環境に影響を与えないで生きているのか。

現代文明に生きる人間は衣食住の全てに、鉱物資源※が関わっています。

(※広義の意味…金属や化石燃料。地下資源。)

世界中が貿易で繋がり、生産活動をする中、食パン一つを考えても、小麦を生産、運搬する過程で大量の鉱物資源を使用しています。

Tシャツ一枚でもそう。そもそも「地球環境を守る」論を唱える方々自身が、地球上の鉱物資源にまみれて(大量消費をして)誕生しているのです。この事はG20に代表される様な経済的に発展した国々であればある程、あてはまります。

 

謙虚さの無さ=傲慢が生み出す「人工」と言う言葉。

 

私の中には地球環境に敵対する意味での「人工」と言う言葉は存在しません。

人類と言う「種」が作ったと言う意味で人工は存在します。

砂漠にはシロアリが何メートルもある巨大な蟻塚を作ります。「虫工」とでも言いましょうか。

カワウソが川に巣を作ります。「獣工」とでも言いましょうか。

鳥が木に穴を開けます。「鳥工」とでも言いましょうか。

虫の、動物の、鳥の行為を環境破壊とは言いません。それと同じです。

 

人間が行っている(地球にとって悪行とされている)事は、地球規模で考えると本当に些細な事です。

 

東北地方太平洋沖地震(東日本大震災における地震)を見ても明らかです。人間にしてみればとてつもない大災害ですが地球にしてみれば軽くクシャミをした程度の事でしょう。

 

地球史上では大陸が一つ、吹っ飛ぶクラスの噴火が起こった事もあります。(当然、大量の生物が死に絶えました)

数百万年や数億年単位で幾多の生物の栄枯盛衰が繰り返されています。地球自身がその様な事を繰り返しているのです。

人間の尺度で何かを語った所で地球には関係の無い事なのです。

原発事故で放射線をまき散らそうが、有機水銀を垂れ流して、水俣病と言う公害を発生させようが、その行為を行った人間を作り出したのも地球なのです。

世間一般的には「地球環境の破壊」と言われるのでしょうが、私の考え方で判断すると、その一連の全てが地球環境の一部となります。

もし、人間を地球に対して「外側」に置いた表現を行うならば、例えば人間が自分の家を作る事も道路を作る事も、水田や農園をつくる事もすべてが「地球環境の破壊」となってしまいます。

 

地球視点で見ると、人間の行っている全ての活動は、地球史上で起こっているほんの些細な「ひとコマ」に過ぎません。

当然に、地球環境に敵対する意味での「人工」と言う言葉は存在しないのです。

 

人間は地球と言うゆりかごに守られて生かされていると言う事実。

人間が活動する事によって、周りに影響を与えざるを得ないと言う事(地球の一部が人間なのですから当然です)。

だからと言って、汚水を垂れ流し、大気を汚し、無尽蔵に資源を消費をして行く事が良いと言う事では無く、動植物全てにおいて、多様性を維持する事が人間にとっても都合の良い環境である事。

 

その様な現実を踏まえた上で、人間は自分達にとって都合の良い社会(人間が地球上で活動すると言う意味での「社会」)を作り出して行けば良いと私は思います。生態系の頂点に居るのですから。

 

鉱物資源を浪費すると「人間にとって都合の良い」地球環境を守れない。

鉱物資源以外の資源も枯渇させず、「人間にとって都合の良い」地球環境を守る。

生態系サービスを維持しなければ「人間にとって都合の良い」地球環境を維持できない。

 

謙虚さを以って、「人間にとって都合の良い地球環境を守る」と言えば話はスッキリします。

受益するモノが何もなく、まるで無償の愛の様な表現で「地球環境を守る」等ど言う表現をするから偽善に聞こえるのです。

 

 

これから日本を含めた世界はどの様な方向性を持てば良いのか。

 

私の考え方(価値観)を踏まえた上で、先にお伝えした通り、だからと言って「浪費」していい訳では無く、謙虚さを踏まえた上で、今、人間が行おうとしている地球環境を守る行為そのものは、そのまま続けて行けば良い事が沢山あります。

 

生活排水に気を付けるとか、ゴミの分別をする等、細かい所から、大気,海洋汚染や地球温暖化に対応する等、国、地域レベルで対応して行く事は勿論必要です。

 

しかし、断言しますが、それだけでは何も変わらないと思います。

何故なら、世界にGDP至上主義、お金至上主義が蔓延しているからです。

 

これはら根本的な考え方が「消費」(浪費)であり、地球上の「いち」生物として、他の生き物と共生し、永続的な循環を考えていないからです。

資本主義と言う旗の下、各国、各企業、ひいては各国民=人間が利益と言う名の「お金」のみに束縛され、それも超短期的な尺度で行動しているのです。

経済的な視点での話はここでは掘り下げませんが、(私より詳しく解説されている方がたくさんいらっしゃると思いますのでここでは割愛します)お金はあくまでも人が人として、有意義な生活を送る上での一つのツールに過ぎず、お金そのものは何の価値もありません。

にも拘らず、人間は自分の為、会社の為、株主の為と言う様々な「旗」を片手にお金(利益)に必死なのです。

 

利益と言うお金を稼ぐ事が悪いと言っている訳ではありません。

「働かざる者、食うべからず」と言う事がありますが、私はこの考え方に基本、賛成します。ですが、「消費(浪費)」を第一に考え、その事を「是」とする社会では「人間にとって都合の良い」地球環境が破壊されてしまう事が火を見るよりも明らかなのです。

 

私が提唱するのは「持続可能な省エネルギー超循環型社会」です。

このビジョンは全世界に先駆けた新しい先進国像としての側面もあります。

そして、その「超循環型社会」を作った先には、人間が真に「地球を守れる」存在になり得るヒントが隠されています。

 

「幼稚園児の男の子とお母さん」の話を出しました。

男の子は十数年後には立派な成人男性になっているでしょう。

そうなれば、自ずと「お母さん」から独立した存在になります。

お母さんの庇護なく、自己の存在を確立出来るでしょう。

 

この話はこれ以上進めても、今回の「国防」の話とは異なった内容になる為、一旦、ここで打ち切らせて頂きます。

 

私の考え方は、人間「様」で地球を捉えると言う事では無く、人間は「現時点においては」あくまで地球の一員であると言う認識を持つ必要があるのではないかと、言う事なのです。

 

長文駄文、失礼致しました。

 

※「超循環型社会」や「その先」の話はまた、別の機会にお伝え出来ればと思います。

循環型社会に関しては、国防の中でも触れる事になるかもわかりません。

日本は世界に対して素晴らしい見本、「超先進国」になる事が出来る可能性を持っています。