日本人の生き方・1 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

日本人の生き方・1
郷土を開発した人々
北海道・東北地方の偉人たち

1・北海道の偉人
北海道の大地に米作りを広めた人
中山久蔵 (なかやま きゅうぞう)

 北海道の寒い土地では、稲を育てることはできない、と誰も信じていました。しかし、中山久蔵は、石狩平野の一角にある島松に、苦労のはてに、黄金の稲穂を実らせたのでした。
 それは、1871年(明治4)ごろのことでした。苫小牧の家族のもとを離れた中山久蔵は、広い土地をもとめて、わずかの米と塩と、農具をせおって、石狩平野へと旅立っていきました。

 三月だといっても、北海道はひどい寒さです。その寒さのなかを、熊やエゾ狼を警戒しながら、原始林をあるいて、野宿もしました。そうやって、島松へたどりつきました。
 島松を最後のはたらき場所にきめた久蔵は、夜の開けないちに起きて、日ぐれは手もとが見えなくなるまで働きました。その年の秋には、努力のかいがあって、あわ、ひえ、きび、そばなどが、八十俵もとれました。

 しかし、久蔵は、米が食べたくて、しかたがありませんでした。それは久蔵だけではなく、北海道の開拓農民は、みんなそう思っていたのでした。だけど、亜熱帯産の米は、温かい地方でないと育たないといわれ、政府は畑作や酪農をすすめていました。

 しかし、北海道の南部の渡島半島の一部では、江戸時代から米をつくっていました。久蔵は、渡島地方に住んでいる友人に、寒さに強いその地方の、「赤毛」という稲の種を分けてもらいました。
 春になるのを待ちかねて、苗代をつくり、こに島松川の水をひきいれて、種をまきました。数日たつと、芽がでてきました。だけど、その芽は少しのびたところで、成長がとまってしまいました。川の水が、冷たすぎるのです。

 どうしたらいいのだ。風呂にはいって、身体をあたためながら考え込んでいた久蔵は、お湯を使うことを思いついたのです。昼間はいいのですが、寒い夜になると、苗代の水が冷えて、稲が育ってくれなかったのです。

 夜になると久蔵は、風呂の湯を苗代にはこびつづけました。くる日もくる日も、その作業をくりかえしました。田植えの季節になって、畑の一部を水田にかえて、苗をそこに移しました。

 1873年(明治6)の秋のことでした。島松に米ができたのです。そのうわさは、付近の開拓村にひろまって、多くの人々が米づくりの方法をたずねて、久蔵のもとへやってきました。こうして、島松を中心に水田が広がっていき、やがて石狩平野に稲が豊かに実るようになりました。

 このことを知った明治政府は、あわてて方針を切りかえて、北海道での米づくりを進めることしたのでた。中山久蔵たちの努力によってはじめられた北海道の米づくりは、その後も品種改良がおこなわれて、北海道の各地へとしだいに広がっていきました。いまでは北海道は、全国一の米の産地になっているのです。

2・福島県の偉人
安積疎水(あきかそすい)で広大な荒れ地を緑の大地にした人
中条政恒 (なかじょう まさつね)
阿部茂兵衛 (あべ もへえ)

 1873年(明治6)のことでした。福島県安積郡郡大槻原は、住む人はほとんどいない広大な荒れ地でした。そこに、二人の男があらわれて、この地を豊かな土地にしたい、とあれ地を見渡して決意しました。それは福島県の役人で、開拓係の中条政恒と、もう一人は、郡山の大商人である阿部茂兵衛でした。

 福島県はむかしから、生糸づくりが盛んでした。生糸をどんどん作って、外国に輸出すれば、国が豊かになります。それに、明治の時代になって、失業している武士たちに、働く場所をあたえることができます。

 そこへ人が集まって、地元がにぎやかになれば、商売も盛んになるのです。桑畑だけでなく、大きな池を作って、田んぼもひらくようにすれば、農民が米をたべられるのです。そのためには、資金が必要でした。

 そこで、郡山で一番の実力者だった阿部茂兵衛の努力で、資金を提供する二十五人の協力者があつまって、開拓事務所「開成社」ができました。こうして、いよいよ大槻原の開墾に、二本松士族が第一陣としてはいってきました。

 1876年(明治9)に、新しい村が誕生して、「桑野村」と名づけられました。開いた水田き76ヘクタールで、桑畑が140ヘクタールと宅地が25ヘクタールでした。そこに住宅が53戸建って、最初の目標をはるかに超えました。

 そのうえに、まだ開墾中の水田や、桑畑があったのです。池は三つも作ったのですが、水不足になるのは、目にみえていました。なんとか対策をたてなければなりません。

 そこで考えたのは、猪苗代湖から水をひくことでした。そうすれば、大槻原だけでなく、安積原野の全域を開拓することができるのです。問題は、資金でした。トンネルを掘って水を引くとなると、たいへんな資金を必要とします。そこで、この安積疎水は国から資金をだしてもらうことにしました。

 国の命令で派遣されてきた南一郎平は、安積疎水が可能かどうか、土地の視察にやってきました。五百川を利用すれは、水路は短くてすみます。南一郎平は、オランダ人技師のファン・ドールンの協力もあって、水路の詳細な設計図を苦心してつくりあげました。

 そこへ、「その計画は待った、安積疎水反対」の運動が起ったのです。猪苗代湖の西側の人々でした。東側に水をもっていかれたら、水位が下がって、農業ができなくなる、というのです。
 西側の反対で、計画がたてられてから工事がはじまるまでに、三年の年月がすぎていきました。ようやく工事が始まったのは、明治十二年の十月です。西側の人たちに安心してもらうために、工事は湖の水位を調節する十六橋水門からやることになりました。工事と並行して、失業した武士たちが全国からそくぞくとやってきました。

 1882年(明治15)8月のことです。安積疎水はほぼ完成して、試通式が行われました。水門が開かれると、猪苗代湖の水は音をたてて流れてきました。

3・青森県の偉人
青森にりんごを広めてりんご王国をつくった人
菊池楯衛 (きくち たてえ)

 1872年(明治5)のことです。アメリカから、りんごの苗木がはいってきて、現在の農林水産省にあたる内務省の官僚は、それを各府県に分けて、植えさせることにしました。1875年になって、青森県には30本が分けられました。県ではそのうち10本を庁内に植えて、残りを草木の栽培に熱心な4人に分けることにしました。そのうちの一人が、菊池楯衛だったのです。

 菊池楯衛は、津軽藩の武士でした。時代が明治になってからは、慣れない手で農業をしていました。楯衛はリンゴの苗木を弘前の畑に植えて、熱心に手入れをしました。アメリカから農業の技術者が来るというニュースを聞くと、遠くまで出かけていって、指導をうけたのです。

 それから、全国の各地に、りんごの育て方を、視察に行きました。そこで、りんごは南の地方では育ちがわるく、青森などの寒い地方に適していることがわかったのです。楯衛は、りんごを郷土がほこる特産物にしてやろう、と決意して、りんごの木を育てるためにいっそう力を尽くしました。

 1880年のことでした。楯衛が植えた木に、はじめて真っ赤なりんごが実ったのでした。それから楯衛は、りんごの作り方を多くの人々に教えていきました。そのうち青森県は、りんご王国になったのでした。

4・岩手県の偉人
親子二代でダム建設に取り組んだ人
藤尾太郎 (ふじお たろう)

 岩手県のほぼ中央部の、北上川の支流にある滝名川にそった、志和、赤石、水分といった村では、長いあいだ水争いが続いて、多くの人々の血が流されてきました。

「ダムをつくって、水争いをなくしたい」
 藤尾太郎は、父親のこの願いを実現させるために、必死の努力をはじめました。だけどそれは、気が遠くなるような、とても長い道のりでした。

 滝名川の水は、すこしでも日照りがつづくと、水かさがへって、すべての村をうるおす余裕など、全くありませんでした。
 1903年(明治36)のことでした。そのころ、志和村の村長だった太郎の父親である藤尾寛雄は、みず争いをなくしようと、ダムの建設を計画しました。だけど、人々の対立が激しく、何もできないうちに世を去ってしまったのでした。

 藤尾太郎は若いころから、ダム建設の計画のために努力をつづけました。そのうちに、父親のあとをついで村長になると、国に必死の思いではたらきかけていきました。
 1947年(昭和22)のことでした。ダム工事のための、予算をもらうことができたのでした。ダムの底に沈んでしまう山王海地区の人々は、最後まで反対でした。だけど、太郎の熱意に動かされて、やっと建設がはじめられたのです。
 1954年(昭和29)のことでした。ダムの建設工事は完成しました。水争いは、それからは、すっかりなくなったのでした。

5・宮城県の偉人
水びたしの品井沼を干拓した人
鎌田三之助 (かまた さんのすけ)

 宮城県の鹿島台町は、現在ではとても豊かな、農業の町として知られています。だけどかつてのこの地方は、大雨が降るたびに、水びたしになってしまうので、とても貧しい地域だったのです。
 そのころの鹿島台村は、海よりも水位が低い品井沼という沼のほとりにあったために、大雨が降るたびに、村に水が流れ込んできました。そのために、三年に一度は、作物がだめになってしまうのでした。

 それより以前にも、沼の水を海に流すための、水路がつくられたこともあったのです。だけど、時間がたつにつれて、泥にうもれてしまって、使いものにならなくなっていたのでした。
 三之助のおじいさんである武左衛門は、江戸時代の終わりごろに、村を救うために水路を引いて、水をなくしてしまい、それから沼を干拓して、田畑にする計画をたてて、工事をはじめたのでした。だけど、武左衛門も、その仕事のあとをついだ息子の三治も、工事の途中で亡くなってしまいました。

 1898年(明治31)のことでした。三治の息子の三之助が、この事業を引き継ぐことになりました。『まず、この村の実体を、国に知ってもらう必要がある』
 このように考えた三之助は、衆議院議員になると、政府とかけあって、援助を求めていき、それに成功したのでした。

 さらに、そのあとは国会議員をやめて、自分からすすんで鹿島台村の村長となって、先頭に立って、工事を監督しました。干拓に反対する人々を、説得してまわりました。
 工事の途中で、死者がでることもありました。だけど、三之助はくじけることがありませんでした。
 1910年(明治43)に、水路は完成しました。そのあとには、立派でみごとな田畑が開かれるようになったのでした。