内田所長の訃報はお亡くなりなられた直後、渡邊氏より知らされた。
今年の七月、池袋で興なわれた「仮面ライダー40週年記念」の折
私はお会いすることは出来なかったが、内田所長の情熱と気迫が実現させた
昭和ライダー大集合、所長は相当の無理をして病院を抜け出し会場のファンと
魂のお別れをした。
所長のお身体が容易ならざることは、手弁当で協力してくれた
ライダー大集合実行委員会の皆様も、我々ライダーも知っていた。
 
私がこの「ライダー40周年記念イベント」の企画を初めて聞いたのは
昨年の8月、生田のザ・グリソムギャングでXライダーの映写会とトークショーの
後で開かれた懇親会でのことだった。
 
渡邊氏から来年はライダー生誕40周年、企画を立てろと所長からせっつかれているとは
聞いていたが、私はあまり真剣に捉えていなかった。
それは十周年も、三十周年も多分あったのだろうから(私は知らない)
40周年もV3あたりを呼んで、やるんだろうなと思っていた。
 
トークショウが終わり直ぐ近くの懇親会の会場に向かう途中
よみうりランドの駅の方向から内田所長が現われた。
真っ白なパンツ、シャツ、それに真っ白な帽子を被って私の前に現れた所長は
三十数年前、生田の所長室で初めてお会いしたときの、日本刀の刃金を思わせる
鋭さを少しも失わない姿で、私に挨拶をしてくれた。
 
所長とお会いしたのは何十年ぶりだろう?
実は殆ど会話した記憶も無いのだ。
ライダー撮影中も、撮影所ですれ違ったりはするが、立ち止まって話をしたとか
所長室で親しく話すということもなかった。
だから本当に三十数年ぶりの再会だったのかもしれない。
 
懇親会は四十人ぐらい居ただろうか、司会の渡邊氏が「席替えです」と云うと
私の周りのファンが入れ替わる。
より親しく私と私のファンの懇親を深めるのだ。
私はこういう懇親会は初めてだったので、とても楽しくファンとの会話を楽しんでいたのだが
そこへ所長が「どけどけ!」という感じで私の目の前に座り込んだ。
 
そして来年の「ライダー40周年記念」の話を熱く語り始めたのだ。
所長は、昭和ライダー全員に集まって貰うと想いを語るが
それは簡単なことではない。
「あいつが音頭を執るならやらない」とか「あいつが出演するなら行かない」とか
それに事務所の問題もある。事務所はライダーのイベントなどに何の感傷も持っていない。
簡単に「その条件だったら、うちの○○は出しません」と断ってくる。
簡単でないことは私以上に所長の方が知っている。
 
「来年の40周年はファンからうねりが興ってくれないといかんのだ、全国のライダーファンが
そのうねりを創って欲しい、それでなければこのイベントは成功しない」と何度も何度も繰り返す。
 
私も熱くライダーへの想いを語る所長の姿に打たれた。
所長が「速水くん、協力して欲しい」と頭を下げた。
私は「わかりました」と答えた。
それだけで十分だった。
男と男の約束とは魂と魂でする。
やると引き受けたらどんな事があろうとやるのだ。
 
その後はXライダークランクイン当時の話になった。
私の知らない事が出てくる出てくる!
それに内田所長のお父さん、名匠「内田吐夢」監督の話だ。
「飢餓海峡」「宮本武蔵」…日本映画に燦然と輝く名作だ。
私が語る名作内田吐夢作品に、内田所長は嬉しそうに頷く。
 
かなり長い間所長と話した。
キャメラマンの川崎さんも途中から参入し、ライダー初期の話
それから映画華やかしころの昔話に、私もわくわくしながら聞き入った。
 
それから席替えが何度か行われ、楽しい懇親会も終わりが近づいた。
ファンと記念写真を撮り、私は拍手に送られ、二階の会場から一階へ降りた。
 
一階は一般の客が入っており、その隅に、所長が一人酒を傾けていた。
そして私が階段を降り切ると所長はその場に立ちあがり
実に見事な、美しい礼をしてくれた。
実に美しい礼だ! 私は思わずその姿に見惚れてしまった。
 
これが去年の所長との出来事だ。
多分所長は、自分の命の時間を、このとき知っていたに違いない。
 
内田所長は絶対に出来ないだろうという昭和ライダー大集合を
ファンへの置き土産として、旅立たれた。
見事な最後だったと、わたしは想う
 
                                                   合掌