笑いということで一つ蘊蓄を述べさせてもらうと
笑いを仕掛ける側としてみれば、これは非常に難しい。

まず仕掛ける側(プロデュサー・デレクター・脚本家・演者「お笑い芸人、俳優、落語家」作家)
その他、作り手側の全てを含む。

この人達が笑いのメカニズムを熟知してなければ笑いは取れない。

1)笑いはより「リアル」な出来事から生まれてくる。

例えばこの間の「すべらない話」は、かなり出来が良く、私も腹を抱えて笑った。
このすべらない話は、演者たちの実体験で、事件に遭遇した演者たちはまさしくリアルに
その当事者で、実際は慌てふためいたり、恐怖で呆然としてしまったり、とんでもない行動を
とってしまったり。

そしてTVで観ている視聴者は、その演者の慌てふためく姿を想像して笑ってしまうのだ。
つまり話している演者とお客が同化してしまうのだ。
だから演者の体験は過酷であればあるほど面白い……これがまず、いろはのイだ。


2)決してお客に落ちを悟らせてはならない。

笑いというのは意外性だ。
観客の想像できなかった結論、結果に引きずり込むから驚きと共に笑いが生まれる。
落ちが先読み出来た時点で、笑いは消える。
演者や作家は観客の思いもよらなかった結末に話を持っていかなければ
真の笑いは取れないのだ。


3)おかしな奴が真剣に物事に取り組むから笑いが取れる。

これを勘違いしている芸人、演出家がかなり多く居る。
おかしな奴が、おかしな事をするから笑えると思っている。
そこがまるで違うのだ…おかしな奴は自分がおかしなことをしているとは認識していない。
自分はまともだと思って行動しているのだ。
だから面白い…仕掛ける側はこれを勘違いすると笑いどころか、クスリともしない観客を前に
冷や汗を毎回浴びることになってしまう。

例えば渥美清のフーテンの寅を思い出して欲しい。
寅さんは当たり前のように、自分の信ずる道を進んでいるのだ。
別にしいて笑わせようとしているわけではない。
おかしな奴が、まともに生きようとするするから面白いのだ。
渥美清という名優はすべて分かって、おかしな奴「フーテンの寅」を演じているのだ。

みんなは「井上ひさし」という作家を知っているだろうか?
小説家であり劇作家であり、劇団こまつ座の主宰者でもある面白い人だ。

この人が昭和31年、上智大学在学中に、浅草フランス座(ストリップとコメディーのメッカ。ビートたけしもここ出身)の文芸部員になり、劇作家としての修業時代を過ごす。

この時代の関東のお笑い芸人は、必ず浅草を体験する。
というよりはここで人気が出ない限り先は無いのだ。
その中でもフランス座はかなりレベルの高い激戦区なのだ。
戦後有名になったお笑いの人達は、殆ど全て(関東)浅草を通過する。

その中でも群を抜いていたのが渥美清だ。まだ渥美さんがTVに出る前の話だ。
フランス座はストリップがメインで、その合間にお笑いの劇が入るのだが
観客は女の裸を観に来ているので、余程お笑いが面白くないと笑ってくれない
それどころか「引っ込め!!」と野次が飛ぶ。
お笑い寸劇の時間は、観客の飯時と決まっているので、その時間が来ると観客は弁当を開く
渥美さんたちの合言葉は「客に飯を食わせるな」だ。
井上ひさしはその現場を目撃していた。

渥美清さんが登場すると、フランス座の中は怒涛のような笑いの渦に巻き込まれ
劇場がまさしく、地響きが起こるように揺れたと述懐している。

そしてその井上ひさしが、渥美さんたちのために書き下ろした台本が今も残っている。
井上ひさしが初めて書いた30分ぐらいのお笑い劇が「看護婦の部屋・白の魔女」だ。
渥美さんの役は病院の若院長で、来る女性の患者、若い看護婦にやたらチョッカイを掛ける
すけべな医者の役だ。

私はその台本を読んでみた…「クソ面白くも無いのだ」笑いの要素など欠片も無い
酷い台本だ。
しかし……観客は怒涛の様に笑い転げ、弁当を食うのも忘れてしまう。

これが芸人の力なのだ…多分、私が演じたら、お客は全部帰ってしまうだろう。
同じ話でも、演じる・語る人によって、その話はまるで違うものになってしまう。

つまりお笑いというのは、演者の力がその大部分を占めているということだ。

この話は例えが沢山あるので、つづきはまた明日~~(^^♪