映画、舞台、これを創ろうとすれば、極端に云えばお金さえあれば誰にでも制作できる。

ではその映画、舞台で、観客を感動させようと思えば、それはとても難しい。

昨今、スポーツ界でも芸能界でも、スーパーの安売りのように「観客に感動を与えたい」と
発言する人達が増えたが、「感動の安売りは止めろよ」といつも思ってしまう。

「感動を与えたい=感動いただきました」……こんな単純な構図が成立する訳が無い。

何の世界でも同じだが、個人的な強い想いが創作の動機となる。

熱意がなければそもそも人を巻き込んでいけないが、熱意だけで良いものが出来るわけでもない。

映画の場合でいえば、たった一人がこれをやりたいと企画を作る。
それに様々な人が絡んでいき、それぞれがそれぞれの思惑で、その作品に携わっていく。

製作会社、配給会社、スポンサー、プロデューサー、脚本家、監督、キャメラマン、その他スタッフ、
出演者。

多くの人が関わるということは、多くの意見が出てくるということで、基本ラインがしっかりしていないとこの時点で、企画と大分違ったものが出てきてしまう。

より具体的になると、NGが出てくる。「このシーンは嵐じゃないと成立しないよ!」「嵐は無理です。
制作費が出ません」 「このシーンは雪で」 「雪だと来年まで撮影期間が延びます。俳優もスタッフも
それまで確保できません」これは単なる一例で、揉め事は山のように出てくる。

だから舵取りの演出家がしっかりしていないと、妥協、妥協の連続で、スカスカの作品が出来上がる。

完成した以上、上映しなければ大赤字になってしまうので、作品の出来はともかく大宣伝を掛けて
客を呼び込む……観客は「騙された!」と臍を噛む。

映画を作るとき、悪い作品を作ろうなどと思っている人は一人も居ないわけで、誰もが良い作品を
観客に観てもらおうと思っているのだが、感動というところに結びつけるのはとても難しい。

脚本家の三谷幸喜さんは私の好きな作家だが、何もかも分かっているような三谷氏が「有頂天ホテル」
のような作品を作ってしまう……本人は原因に気付いていない。
私は分かっている。三谷氏は今の地獄を抜け出した時、また素晴らしい作品を作り出すことだろう。

良い作品というのは、作り手側が、その現場で、ワクワク、ドキドキ、ソワソワ、早く観客に
この作品を見せたいという想いが、俳優、スタッフの中に広がってくる。
みんな映画造りが好きでこの世界に入ってきた人だ。
自分が携わった仕事を観客に「良かったよ!」と云って貰えるのが、何にも増して嬉しいのだ。

しかしそれには、観客の厳しい目が必須なのだ。
ニューヨークの舞台では、芝居が詰まらないと観客は次々と帰ってしまう。
義理で芝居など観ないのだ。
それは映画でも同じで、それが作り手を厳しく育てる。

観客は良い作品が観たい、感動したいといつも思っている。
収益と効率性を優先した作品からは、決して感動というようなものは味わえない。

                                          つづく