「太陽の季節」大ヒットとなる

 こうした緊急事態のさなかに登場したのが「太陽の季節」である。31年5月3週の浅草日活劇場における動員週計は3万5千人強、同じく新宿日活劇場では4万人の大量動員に成功し、主要劇場では3週ロングを行なって製作再開以来新記録を樹立する大ヒットとなった。
 この「太陽の季節」によって、企画方針の一大転換が行なわれ、たて続けに「狂った果実」、「逆光線」、「夏の嵐」等のいわゆる太陽族映画が公開された。その倫理性をめぐって社会的に大きな問題を投げかけ、批難の声が激しさを加わるにつれて興行成績は逆に向上するという現象さえみうけられた。それはともかくとして太陽族映画のヒットが日活に齎(もた)らした利益は大きい。第一に、その製作が日活生え抜きの若手スタッフ及びタレントによって行われたことで、石原裕次郎、長門裕之らをスターに育て上げる端緒を掴む一方、興行力が安定すると共に、行きづまっていた配給市場の開拓にも突破口が開かれたのである。配給契約館も31年4月の1,480館から同年6月には1,700館に増加をみた。また、31年2月作品「ビルマの竪琴」は戦記映画の秀作としてヴェニス映画祭で、最初のサン・ジオルジオ賞(人類の共同生活に寄与する人間の能力を最もよく描いた作品に与えられる特別賞)を受けており、文芸作品や社会面映画への意欲も旺盛であった。・・・(日活の歴史より抜粋)

まさしく日活存亡の危機を救ったのは「太陽の季節」であり「石原裕次郎」だった。

この当時、各映画会社がどのくらいの映画を年間撮っていたのかといえば、約500本だ\(◎o◎)/!
驚くべき数だ・・・一社が100本近くの制作をしている。

この当時の映画館は二本立てで、普通は一週間ごとに作品が変わる。
月に8本から10本の映画制作、TVドラマを作るのと違って映画は時間が掛かる
月にこのペースというのは、大変なことなのだ。

しかし、石原裕次郎を本当の大スターにしたのはこれらの作品ではない
その翌年昭和32年(1957年)9月に封切りされた「鷲と鷹」だ\(◎o◎)/!
この作品がその後の日活を変えてしまう、日活アクション! 無国籍映画、圧倒的な裕次郎のキャラクターの確立だ。

これは百万言の言葉を費やしても、その衝撃は伝わらない・・・
実際の「鷲と鷹」のトップシーンと裕次郎を見てもらおう・・・・・・

http://www.youtube.com/watch?v=2fTdTR9k0uQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=yexBW9zBO-8

                                           つづく