雨が止んだので、夏至のお祝いにアナベルとニンジンの木を生ける。
ニンジンの木は、正式には西洋人参木というらしい。葉が繊細。
最近、ポール ギャリコの『スノーグース』と『七つの人形の恋物語』を再読する。
角川文庫だと、この二つが収録されている。
『スノーグース』のあとで『七つの人形の恋物語』を読む順番がいいと思うので、読むとしたら角川文庫がおすすめ。
矢川澄子の訳がとてもいい。
『スノーグース』はこんな出だし
その大沼はエセックスの海岸にあって、チェルムバリの村と、ウィッケルドロースの古来牡蠣をすなどるサクソン人の小部落とにはさまれています。ここはイギリスでもいちばん、未開のままの姿をとどめている土地のひとつで、はるかに広がる丈の低い雑草や葦の原と、なかば水に浸かった牧草地とが、ゆれやまぬ海のきわで果てるあたり、大きな塩沢や泥沼や海水のたまりを作っているのです。
塩のさす入江や河口と、大海の端をひたひたと舐めすする、まがりくねった小川のたくさんの支流が湿原に入り込んでいて、朝夕の潮の満ち干につれて、その湿原が水面にあらわれたり、沈んだり、ちょっぴり頭をのぞかせたりしています。
荒れ果てた、まことにわびしいありさまで、沼地や塩沢に巣くう野鳥の群れの鳴き交わす声が、わびしさをいっそうつのらせます。
(中略)
人間は一人も住んでいませんし、ときたま現れる鳥打ちや地元の牡蠣採り漁師のほかは、人っ子ひとり見かけられません。
(中略)
あたりは灰色と、青と、うすみどりの色だけです。なにしろ長い冬の場には空もどんよりと垂れ込めて、渚や沼のたくさんの水面が、そのつめたい、くらい色を映し出すからです。でもときどき、日の出や日の入りには、天も地も、紅と金色の炎にぱっと燃えあがります。
このような光景のなかに、燈台小屋があり、ラヤダーというひとりの男が暮らすようになる。
ある日この燈台小屋に傷ついたスノーグースを胸に抱えた古代サクソン語の発音で話す少女がやってくる。その子は
薄汚れたほっそりした顔のなかからかがやきだしている深すみれ色の目
をしている。深すみれ色の目っていう描写も素敵。
あらすじを書くとノートルダムのせむし男みたいな話になってしまいそうで、この話の良さがかえって消えそうなのでやめとおく。
すべての描写がとても綺麗で、哀しく、心に残るおはなし。
恋物語ではあるけど、雪の結晶が跡形もなく消えていき、あとには清らかさだけが残るようなお話だと思う。
それにしても風景描写が素晴らしくうまい。
こんな文章に憧れる。
矢川澄子はすごいなあ、詩人だなあ…。
次の『七つの人形の恋物語』は、パトリス ルコント監督の映画『橋の上の娘』にちょっと似ている。男性はこういう話が好きなのかな?
2つとも、セーヌ川に見投げしようとする少女と旅芸人の組み合わせ。
久しぶりに昔みたときのチケットを出してみる。
懐かしい。この映画もとても良かった。
『七つの人形の恋物語』の主人公ムーシュはブルターニュ出身という設定で、ブルターニュは文化的にはケルト人に近いらしく、妖精とか目に見えない存在を近く感じて生きているところがあるらしい。
だからムーシュは人形と会話するなかで人形に命を持たせ、観客も夢の世界に引きずりこむ力がある。七つの人形を操る芝居小屋のキャプテン コック一座と旅をするなかで、七つの人形たちそれぞれと心を通わせる…というと、子ども向けみたいだけど、実際は大人のおはなし。
キャプテン コックは人形を通してしか心を出せない孤独な男。
これを映画にするとして、キャプテン コックの役が誰ができるのか想像すると、難しい。演技に没頭できる人でしかも演技がうまい人。そして色気がある人がいい。そうじゃないと、ただの陰気なDV男になる。
日本人にはいないと思ったけど、ただひとり三國連太郎ならできたかも。
ちなみにムーシュはこの文庫の表紙の少女には全く似てない。
これも誰がいいか考えたけど、髪をブロンドに染めない、ブルネットのままのブリジット バルドー。それもバレエで素晴らしい肉体にならなかった場合のブリジット バルドーなら似合いそう。
となると、キャプテン コックはゲンズブールになってしまいそうだけど(ふたりは一時期付き合っていたから)、ゲンズブールはあまり好きじゃないからやめておこう。
この話もやはり映像化は無理だと思う。
そういうものを読むと充実感がある。
ただ、ブルターニュやサクソン人と聞いても、いまいちよくわからない。
文脈から、何かキリスト教だけじゃない信仰というか、生活形態をもっているみたいだとはわかる。
そういうのを調べに海外に行くのも楽しそうだなあ。外出自粛で海外渡航も難しくなったら、逆に海外に行きたくなる。
ちなみに ポール ギャリコ は猫好きな作家で、猫が主人公の話も上手い。
あるのかないのかわからない魂の存在と、猫は似ている。