シャープが2024/5/14に国内のテレビ向け液晶パネル生産から撤退することを発表した。1991年に量産を開始してからの液晶パネル関連の連結最終損益の赤字額は19000億円を超え、まさに日本の製造業の凋落を象徴する出来事と言える。液晶パネル事業は典型的な設備産業であり、グローバル市場において、巨額の設備投資を行って大量生産・大量販売を行って競争に勝ち抜くのがビジネスモデルである。技術革新により液晶の世代交代毎に巨額の設備投資を行うことが求められ、新たな投資を止めた途端に競争から脱落するリスクと隣り合わせの事業である。日本の電機メーカーは、これまでも巨額の設備投資が必要な半導体(DRAM)、太陽光パネル等の事業において、投資に躊躇したり、タイミングが遅れたりして経営判断を誤ることが多かった。その結果として、中国・韓国・台湾勢に遅れを取る結果となった。今回、マスコミが大きく取り上げたシャープのテレビ向け液晶パネルの国内生産の撤退も、これまでと同様の問題があるように思える。

 

 

 

今回は液晶パネル事業の歴史を振り返りながら、「液晶のマーケティング」について考えてみたい。液晶に限らず、画像表示デバイスの歴史はそれほど古いものではない。ブラウン管が初めて世の中に出たのは1897年であり、ドイツのナイト・ブラウンがブラウン管を発明した。1926年に日本の高柳健次郎が世界で初めて、ブラウン管による電送・受像に成功し、それがその後のブラウン管テレビの実用化に繋がっている。一方、液晶パネル(LCD)は、液晶の原理そのものは1888年に発見されていたものの、最初の液晶パネルが発明されたのは1968年であった。当時は、表示デバイスとしての完成度はまだ低く、日本では1973年に電卓の表示に使われ、その後、腕時計、電子手帳、携帯ゲーム機、ワープロ等のデジタル機器の表示に使われて技術が磨かれていった。液晶テレビは、エプソンが1983年に世界初の液晶カラーテレビを発売したが、まだ製品としての価格や機能は消費者を満足させるレベルには至っておらず、その後もブラウン管テレビの時代が続いた。

シャープはテレビ事業のキーデバイスであるブラウン管の技術を持たず、他社からブラウン管の供給を受けてテレビ生産を行っていたが、それがあったからこそ、液晶テレビへの大胆な挑戦ができたのだろう。テレビメーカーとして勝者になるには、キーとなる表示デバイスを自社で保有する必要がある。シャープは、1952年に国内初のテレビを発売しており、この分野ではパイオニア企業である。しかし、ブラウン管を自社で製造せず他社から購入していた為に、業界の主導権を取れなかった。テレビ事業の進展は、映像表示のキーデバイスであるブラウン管の技術革新によるところが大きく、キーデバイスを他社に頼っていては、いつまで経ってもテレビ事業のシェアは低いままであり、業界をリードすることはできない。

 

 

シャープは、液晶パネルを自社で開発し、電卓、電子手帳、携帯ゲーム機等に採用して、一定の成功を収めてきた。その後、シャープは製品開発にあたり、自社が保有する液晶技術を差別化機能として取り入れた。ワープロ「書院」、携帯情報端末「ザウルス」、大型液晶パネル搭載型ビデオ「液晶ビューカム」のヒットは、シャープが表示デバイスである液晶の重要性とそれをキーにした差別化戦略が見事にあたったからである。「目の付けどころがシャープでしょ」というキャッチフレーズも、単なるアイデアだけでなく、液晶という他社に対する比較優位を持つ表示デバイスがその自信の裏付けになっている。

1990年代半ばになると、テレビやモニター等の表示機器の大型化・薄型化が進む中で、次第に表示デバイスもブラウン管一辺倒という訳にはいかなくなってきた。この時点では、有機ELはまだ十分な実用化には至らなかったが、信頼性の高い表示デバイスである「ブラウン管」以外にも、新しい表示デバイスとして「液晶」「PDP(プラズマディスプレイ)」の製品化が進み、テレビ事業においても、表示デバイスの地位をこの3つがお互いに争う展開となっていった。

1987年に37インチの大画面のブラウン管テレビが国内で発売されて、それがヒット商品となった。また、放送規格の関係からテレビ画面も、従来の4:3から16:9に移行した。そして、それと併行するかのよう、テレビの大画面化が進んでいった。ブラウン管は、技術的にも成熟して品質も安定しており、大量生産によって価格も安く、表示デバイスとしては極めて優れていた。しかし、テレビの大画面化が進むと、ブラウン管の特性から重量が重くなり、奥行きもあるので設置場所にも制約があった。その点、液晶は軽くて薄いというメリットがあるが、大画面化するには歩留まりの問題等での困難もあり、また価格も高かった。一方、液晶が自発光しないのに対して、PDPはブラウン管と同様自発光である。しかも、大画面化がしやすいことから、大型薄型テレビ向けに適した表示デバイスと言われた。但し、この当時は、ブラウン管は品質面、価格面からも他の表示デバイスに比べて優位であり、簡単に市場がなくなることはないだろうと言われていた。薄型テレビの将来展望としては、小型テレビは液晶が優位、大画面テレビはPDPが優位であり、今後もそれぞれの表示デバイスがその優位性を踏まえて棲み分けを図りながら、事業展開が行なわれるだろうと言われていた。

しかし、このような業界の流れの中で、シャープだけが液晶テレビへのシフトを強力に進めて行った。1998年に長期計画を発表し、その中で2005年までにブラウン管テレビの生産は停止し、全て液晶テレビにすることを宣言した。2001年からAQUOSブランドの液晶テレビを発売、CMに吉永小百合を起用して「20世紀に置いていくもの、21世紀に持っていくもの」というキャッチフレーズで、21世紀は液晶テレビの時代、液晶テレビはシャープを徹底的に訴求した。その予想は的中し、その後の薄型テレビの普及と需要の拡大の中でシャープは大きく成長していった。2004年には三重県亀山市に液晶パネルからテレビまでを一貫生産する亀山工場を稼働させ、液晶テレビの代名詞ともいわれる「世界の亀山モデル」で液晶はシャープというブランドイメージを確立した。

 

 

シャープの2008年度のパネル事業の連結損益は1019億円と最高益を記録した。しかし、それ以降は、円高の中で2009年10月に巨額の投資を行って堺工場を稼働させたが、中国・韓国と言った海外勢の攻勢に押され、次第に競争が激化していった。シャープは、ソニーをパートナーとして、2008年には液晶パネルでの連携を深め、液晶パネルというデバイス事業と液晶テレビという機器事業の両面から事業拡大を進めた。しかしながら、この時期を境にして、シャープは急速に勢いを失っていった。これには、一体どのような理由があるのだろうか。当時の液晶テレビ業界の状況を踏まえて、次の質問を考えてほしい。

 

Q1:2008年当時、液晶テレビ事業において、シャープとソニーは業界一位、二位のトップメーカーであった。ソニーのブラウン管テレビは、世界で唯一独自の規格であるトリニトロンブラウン管を表示デバイスとして利用しており、優れたブラウン管技術を持っていたことが逆に液晶パネルへの軽視に繋がり、ブラウン管から液晶へのシフトに遅れをとったのではないかと思われる。液晶テレビ市場が予想を上回る成長を遂げる中で、危機感を持ったソニーは液晶パネル供給を他社に求めた。シャープとの関係もそのような中で深まり、液晶パネル製造の合弁会社にソニーが出資することも行われた。2009年5月からエコポイント制度がスタートし、地上波デジタル対応テレビが対象となったことで、液晶テレビの需要が拡大、予想を上回る売れ行きがあり、ソニーからシャープへの液晶パネルの供給要請は強くなっていった。一方で、シャープ自身もAQUOSブランドの液晶テレビを販売していた。業界全体においてパネル供給がひっ迫する中で、シャープはソニーからの要請にどのように答えたのだろう。次の中から正しいと思うものを選んでほしい。

 

 

①シャープは、AQUOSブランドの液晶テレビの生産を優先し、ソニーのパネル供給の追加要請には対応しなかった。

 

②シャープは、ソニーは大切な液晶パネル販売の顧客であり、今後のことを考えて顧客をつなぎとめるため、ソニーの要請に応えて、液晶パネルを追加で供給した。

 

③シャープは、ソニー以外にも液晶パネル販売の顧客を多数持っている。そこで、今後のことを考えて、重要なパートナーであるソニーの要請に応え、ソニー以外の電機メーカーへの液晶パネル供給を抑え、その分をソニーに追加供給した。

A1:正解は①である。シャープは、AQUOSブランドの液晶テレビの生産を優先し、自社用に液晶パネルを振り向け、ソニーの液晶パネル供給要請には応えなかった。慢性的なパネル供給不足が続いたことで、ソニーへの液晶パネル供給は滞り、これによってソニーはシャープの対応に疑問を持ち、離れていった。シャープは自社のテレビ販売を優先したことで、液晶パネルにおいてWin―Winの関係にある重要なパートナーを失ったのである。

そもそも「一般消費者を顧客とする液晶テレビという完成品の販売」と「テレビメーカーを顧客とする液晶パネルというデバイスの販売」は全く異なるビジネスである。同じ電機メーカーがそれぞれの事業を伸ばそうとしても、機器とデバイスでは販売方針がそれぞれ異なる。このような場合は、完成品メーカーとしての事業を目指すのか、デバイスメーカーとしての事業を目指すのか、メーカーの基本方針を明確にして臨む必要がある。液晶テレビ事業を考えた場合、液晶テレビを作るメーカーは世界に多数ある。一方、液晶パネルを作るメーカーは数が限られる。液晶パネルは設備産業であり、リスクを持って多額の投資を行い、パネルを大量に生産・販売してその投資を短期間で回収することが求められる。シャープが今後も液晶を事業の柱と考えていくのであれば、差別技術は液晶パネルというデバイスにあり、本当のライバルはソニーではなく、中国・韓国の液晶パネルメーカーなのである。事業全体を捉えても差別化のポイントは、液晶パネルなのであるから、自社ブランドであるAQUOSブランドの液晶テレビの販売よりも、メーカー色を消して液晶パネルの販売に注力した方が、長い目で見てシャープにとって得なのである。現在、村田製作所やニデックのような部品メーカーの実績が好調であるが、これらの会社はデバイスメーカーに特化して、黒子に徹して業績を上げている。シャープのような家電メーカーは、長らく完成品中心の販売を行ってきたことから、自社ブランドを優先する傾向がある。しかし、現在のようなグローバル市場においては、機器とデバイスについて、それぞれの事業について立ち位置を冷静に捉え、事業の特性を踏まえた戦略を展開することが求められる。

 

 

【PDP(プラズマディスプレイ)事業のその後の経緯】

1990年代の半ば頃、表示デバイスの将来については、「ブラウン管」に加えて、新しい表示デバイスとして、「液晶」「PDP(プラズマディスプレイ)」という薄型表示デバイスが登場し、テレビ等のディスプレイ事業の将来を3つの表示デバイスが争うと言われた。その後、液晶が価格低下や大型化が予想を上回るペースで進んだことで急増し、ブラウン管はそれに置き換えられて縮小していった。それでは、もう一つの大型の薄型テレビとして有力視されたPDPはどうなったのだろうか。PDP事業は、大型化が比較的容易であり、液晶と異なり、自発光で、動作性にも優れていたことから、大画面についてはブラウン管に代わる有力な表示デバイスと言われていた。ブラウン管と異なり薄くて場所を取らないし、過去から特殊な業務用の表示パネルとして使用されており、価格は高いがそれなりの使用実績はあった。コスト低減と量産品質の向上が図れれば、将来有望な表示デバイスと言われていた。1990年代は、富士通、日立、パイオニア、三菱電機等が開発・製造に注力したが、多額の投資が必要となる設備産業であることから、途中で脱落するメーカーも多く、最終的に事業として本格的に立ち上げたのは資金力のあるパナソニックが残った。パナソニックはPDPをキーデバイスとして大型テレビの拡販を図り、尼崎に巨額の設備投資を行ってPDP工場を立ち上げた。パナソニックは世界一のPDPメーカーとなったが、競合関係にある液晶パネルも量産技術が向上して低価格化が進み、液晶の弱点である大型化や視野角が狭いといった問題も改善が進んだ。その結果、大画面の分野においても、PDPの表示デバイスとしての優位性が保てなくなり、売上も頭打ちとなった。最終的には、パナソニックのPDP事業は2013年度に多額の負債を残したまま工場を売却し、事業撤退を行っている。