イトーヨーカドーの閉店が止まらない。2024年2月に北海道・東北・信越の17店舗を閉店することを明らかにしたばかりであるが、3月に入ると首都圏の6店舗について閉店もしくは閉店する方向で検討を進めると発表した。日本を代表する総合スーパー(GMS)であるイトーヨーカドーの立地戦略は、「駅前立地」を基本としてきた。駅前の一等地に大型店舗を出店し、駅前に集まる顧客を対象にして売上拡大を図ってきた。出店にあたっては、立地を重視して場所を慎重に選ぶとともに、近隣エリアに集中的に店舗配置を行うドミナント戦略によって、当該地域のプレゼンスを高めるとともに、広告宣伝や物流等の面で効率化を図り、東日本では総合スーパーとして圧倒的な存在感を示してきた。しかしながら、モータリゼーションの流れの中で、移動手段が鉄道から車に移っていくにつれ、店舗立地の条件も次第にかわって行ったのである。

 

 

総合スーパーのもう一方の雄であるイオンは、このモータリゼーションの流れを巧みに利用して、郊外の幹線沿いに広い敷地と安い地代というメリットを有効に活用してモール形式の大型店舗を次々と開店させて、駅前立地の総合スーパーから売上を奪っていった。それに加えて、家電・家具・衣類・日用品等に特化した専門店が、その専門性を生かして大きく売上げを伸ばしていった。イトーヨーカドーは、駅前の好立地による集客力と店舗に行けば全ての商品が揃うという総合スーパーとしてのメリットを武器に成長してきたが、車社会への移行による消費者の購買行動の変化と商品別に専門性を高めたカテゴリーキラーと呼ばれる専門店の伸長によって、徐々に売上を奪われていった。そのために恒常的な赤字が続き、経営的に立ち行かなくなったことで、最終的に大量閉店に繋がったのである。

 

 

総合スーパーに限った問題ではないが、一般的にチェーンストアが広域にわたって店舗展開を行う上で、どのような方針で出店を進めるかは非常に重要な問題である。市場環境の変化によって、当初の前提条件が途中からかわってしまうことがある。それまでは長所だったものが、市場環境変化によっていつの間にか短所になってしまうのである。前提条件が変化することに気が付かないと、経営判断を誤らせることになる。市場は生き物であり、環境変化によって常に市場自身も動いている。その変化に気が付かずに従来の方針で事業を進めていると時流に乗り遅れ、それが業績の悪化に繋がって行く。イオンは長らく、二番手チェーンとして、イトーヨーカドーの下位に甘んじていたが、2004年度に利益率でイトーヨーカドーを上回った。そして、それを境にして、トップ企業としての地位を固めて行った。これも集客を行う上での好立地の条件が、モータリゼーションという時代の変化の中で、集客の重点が「駅前」から「幹線沿い」に移って行ったことが影響している。

これまでも述べてきたように多店舗展開を進める上で、新規出店の場所をどこに選定するかを判断する際に重要となる要素が「立地政策」である。そして、もう一つの重要な要素がある。それが、土地建物を自社で保有するか、所有者から借りてテナントとして出店するかという「出店政策」である。今回は、総合スーパーの「出店政策」に関する問題を取り上げてみたい。

 

 

Q1:日本経済の高度成長の波に乗って、総合スーパーは1960年代から急速にチェーン展開を進めて行った。高度成長時代の経済は長期にわたって右肩上がりであり、消費者から総合スーパーと言う販売形態が支持されたことで、出店数がそのまま売上拡大に繋がり、総合スーパー間で激しい出店競争が展開された。出店を進める上での重要な要素の一つとして「出店政策」がある。新規に出店する場合、「土地建物を自社で保有して出店」という方法もあれば「所有者から土地建物を借りてテナントとして出店」という方法がある。「土地建物を自社で保有して出店」をするには、それに相当する資金が必要になるが、スーパーが出来たことで店舗周辺に人が増え、その効果で土地や建物の価値が上がる可能性がある。一方、「所有者から土地建物を借りてテナントとして出店」という方法は出店に伴う資金が少なくて済み、契約期間が過ぎれば、いざという時には撤退も容易である。但し、出店効果で土地や建物の価値が上がると所有者からテナントの家賃の値上げを要求される可能性がある。

そこで、ここではスーパー形成期の当時、有力な総合スーパーと言われた3社(A社、B社、C社)が採った「出店政策」について考えてみたい。A社、B社、C社はそれぞれが出店するにあたって、店舗について自社保有とテナントを比較し、独自の判断で「出店政策」を決めてチェーン展開を図っている。それでは、この3社の中で、もっとも速く多店舗の全国展開に成功したのは、どの会社であろう。次の中から正しいものを選んで欲しい。

 

①総合スーパーA社は、店舗展開を行うにあたっては、土地建物は自社では保有せず、全ての店舗をテナントとして出店を図った。テナントにすることで、出店に伴う資金負担が軽減し、業績が悪くなった時でも、自社店舗に比べて撤退が容易であり、リスクが少ないことから、出店政策も柔軟に対応することができ、もっとも速く多店舗の全国展開に成功した。

 

②総合スーパーB社は、店舗展開を行うにあたっては、5割の店舗は土地建物を自社で保有し、残りの5割の店舗はテナントとして出店を行った。自社保有とテナントを組み合わせることで、出店政策も柔軟に対応することができ、もっとも速く多店舗の全国展開に成功した。

 

③総合スーパーC社は、店舗展開を行うにあたっては、土地建物を全て自社で保有して、出店を行った。出店に伴う資金負担は大きいものの、長い目で見るとテナントに比べて自社店舗ならではの自由で安定した店舗運営を行うことができ、もっとも速く多店舗の全国展開に成功した。

 

 

A1:正解は②である。総合スーパーB社は、店舗展開において自社保有店舗とテナントを組み合わせ、柔軟な出店政策を進めた。自社店舗の土地を担保に銀行借入を行って、それを資金に更に新店舗を増やし、多店舗化を加速させた。総合スーパーとしては1972年に初めて百貨店を抜いて小売業で売上高日本一となった。

総合スーパーの具体的な名前をあげると、A社はイトーヨーカドー、B社はダイエー、C社はイズミヤである。イズミヤは店舗展開を図るにあたって、土地建物を自社で保有するという堅実な方針を採っていた。この方針は出店を進める上で足かせとなり、資金面での制約があったことから他社の多店舗展開に対して後れを取ってしまった。そのために、なかなか関西を中心とする地域スーパーの地位から脱することが出来なかった。一方、イトーヨーカドーは自社保有の土地建物を持たず、店舗を借りてテナントで出店を図ったことで、出店における資金負担は軽く、迅速に全国に向けて多店舗展開を図ることができた。

しかし、それ以上に急速に多店舗展開を図って、日本一の全国チェーンを築いたのがダイエーである。ダイエーは、当初は店舗の5割を自社店舗、5割をテナントとすることを基本に出店政策を行っていた。店舗展開を進める中で、自社保有店舗の重要性に気づいた。主要駅の近くに自社店舗を出店するとその土地の価値が上がる。自社店舗の土地の価値が上がると、その土地を担保に銀行から借入を行うことができる。その借入金を更なる出店の資金として活用する。借入と出店を繰り返すことでダイエーは多店舗展開を加速していったのである。1972年にはそれまで長い間小売業界に君臨していた三越百貨店の売り上げを超え、1980年には日本の小売業では初めての1兆円企業となっている。

ダイエーの採った手法は、土地を担保に銀行から資金を借り入れ、その資金で新たな土地を買い、店舗を拡大するという経営である。地価が上昇を続ければ、この手法で店舗拡大が続けられるが、バブルが崩壊すると、地価が下がり続け、ダイエーは巨額の債務を抱えてしまった。そして、最終的には産業再生機構による経営再建を行うことになった。現在、ダイエーはイオンの傘下に入っている。

 

 

【総合スーパー(GMS)の盛衰】

総合スーパーは「駅前立地」を基本に店舗展開を図り、その中でいち早く多店舗展開に成功したのがダイエーである。しかし、ダイエーの自社店舗の土地を担保に店舗拡大を図るというビジネスモデルは長く続かず、バブルが崩壊したことで、地価が下がって巨額の債務を抱えて経営再建に追い込まれてしまった。その点、リスクを考えた店舗政策に基づき、自社で土地建物を保有せずに、テナントでの運営を行っていたイトーヨーカドーは、バブル崩壊の影響をほとんど受けずに、1990年代も売上を拡大していった。しかしながら、車社会により「駅前」から「ロードサイド」に顧客動向が変化し、加えてカテゴリーキラーと呼ばれる商品分野毎に特化した専門店の急増により、総合スーパーという業態そのものが時代に合わなくなってきた。それが、現在のヨーカドーの大量閉店に繋がっている。このような状況の中でイオンは、他の総合スーパーとは異なる店舗政策で、モータリゼーション化に伴う顧客動向の変化を捉えて、郊外にモール型の大型店舗を出店することで売上拡大を図っていった。そして、ダイエー、ニチイといったかつてライバルであった大手スーパーを自社の傘下に入れ、国内流通最大手の企業となった。