最近は、ほとんど目にしないし、若い人の中には見たこともないという人もいるかもしれないが、2000年7月に日本で初めて二千円札が発行されて話題になった。岩倉具視の肖像画が描かれていた五百円札は五百円硬貨が発行されたことで姿を消し、紙幣と言えば、千円札、五千円札、一万円札の三種類が使用されていた。そこに2000年になって二千円札という新しい紙幣が登場したのである。

 

 

2024年1月20日付の日本経済新聞の連載コラム「私の履歴書」で武藤敏郎元財務官は二千円札を発行した経緯を述べている。二千円札の発行について「政府のミレニアムプロジェクト(千年紀事業)として小渕恵三首相に二千円札を進言すると、首相は即決され、10月に自ら発表された。欧米では20ユーロ札や20ドル札がよく使われているが、二千円札はあまり使われていない。いつか見直される日が来れば良いと願っている」と書かれている。

確かに、2000年7月に二千円札が発行された時は、新しい種類の紙幣であり、表面は沖縄を代表する文化財である守礼門、裏面は紫式部とその代表作である源氏物語絵巻が描かれていた。発行当初は大変話題になったが、沖縄以外ではいつの間にか使われなくなった。今は沖縄を除く全国のATMや自動販売機ではほとんど使うことができないのである。

次の質問は、発行当初は国内で大変話題になった二千円札の普及に関する問題である。紙幣の使い方について考えるのは、マーケティングなのかと思われる方もいるかもしれない。しかし、マーケティングの権威であるアメリカの経済学者コトラーが、マーケティングという言葉の定義の中で、「恋愛」や「教会」もマーケティングであると説明している。広義に捉えると「紙幣」もまたマーケティングなのである。

 

 

Q1:2000年7月に日本政府は「ミレニアムプロジェクト(千年紀事業)」の一環として、二千円札を発行した。欧米では20ユーロ札や20ドル札がよく使われているので、日本でもその便利さから普及するだろうと思われたが、国民はその必要性を感じなかったのか、あまり使用されず、普及しなかった。それでは、何故普及しなかったか、その理由について、次の中から選んでほしい。

 

①日本の紙幣には、肖像画が多く描かれる傾向にあり、当時の千円札は夏目漱石、五千円札は新渡戸稲造、一万円札は福沢諭吉が描かれていた。ところが、新しく発行された二千円札には人物の肖像画が描かれておらず、その点がこれまでと違うので評判が悪く、普及しなかった。

 

②紙幣は金額によって異なるのはデザインだけでなく、その大きさも異なる。ところが、二千円札はもともと発行されていた千円札と全く同じ寸法であったことから、二千円札を千円札と誤って使用するトラブルが続出し、これによって評判が悪くなり、普及しなかった。

 

③日本人は、金額の頭の数字は奇数を好む傾向にある。今、流通している硬貨と紙幣を金額の低い順から並べていくと、一円、五円、十年、五十円、百円、五百円、千円、五千円、一万円といずれも頭の数値は奇数である。新たに発行された二千円札だけが頭の数値が偶数であったことから、評判が悪く、普及しなかった。

 

 

A1:答えは③である。

2000年7月に日本政府は「ミレニアムプロジェクト(千年紀事業)」の一環として、またこの年に沖縄サミットが開催されたこともあって、新額紙幣としては42年振りとなる二千円札を発行した。欧米では20ユーロ札や20ドル札がよく使われているので、日本でも普及するだろうと単純に考え、西暦2000年や沖縄サミットと絡めた新しい試みとして、話題性も加味して当時の役人が提案したのであろう。実際に二千円札を発行してみると、国民からは使いにくいと不評であり、いつの間にか話題にも上らなくなり次第に使われなくなって行った。但し、沖縄地区だけは、紙幣の表面に沖縄を代表する文化財である守礼門が印刷されていたことから人気があり、沖縄では今もよく使われている。一方で、沖縄地区以外では、ATMや自動販売機でも取り扱っていないのが現状である。

そもそも、国民性として、偶数のお金を扱うのは縁起が良くないといって敬遠する人が多い。日本ではお祝い金やお年玉を渡す際も、その金額はほとんどの場合が奇数であり、偶数の金額を渡すケースは少ない。「割れる金額は縁起が良くない」と言って嫌うのである。従って、これまでに日本で発行された紙幣の頭の数値はほとんどが奇数であった。過去に二百円札が発行されたことはあったが、緊急時の紙幣不足対策として発行されたものでその後失効しており、国民に受け入れられて定着した紙幣とは言えなかった。

欧米では20ユーロ札や20ドル札がよく使われており、同じような考えから、日本でも二千円札が発行されれば、その便利さから普及するだろうという考えが政府の役人にはあったが、割れる数値(偶数)を嫌がるという昔からの文化を考慮せずに、強引に新しいものを持ち込んでも、簡単には国民性は変えられないのである。

それでは、何故沖縄だけ何故二千円札が受け入れられたのかということになるが、そこには理由があった。二千円札の表面には沖縄を代表する文化財である守礼門が描かれており、沖縄サミット開催に合わせて二千円札が発行されたことで県民から好意を持って受け入れた。それに加えて、戦後の27年の米軍占領下において流通貨幣は米ドルであり、20ドル紙幣が日常的に使われていたことで、割れる数値(偶数)を嫌がるという意識が薄くなり、二千円紙幣も受け入れられやすい土壌ができたのだろう。

 

 

【二千円札と日本文化について】

貨幣や紙幣は国民が日常生活を行う上で必須のものであることから、どの国でもそれを使用する際に自国を意識させるようなデザインが多い。海外の貨幣や紙幣を見ると、その国の国王やリーダーが描かれることが良くあるのも、国に対する意識を国民に強く持たせる意図があるのだろう。もちろん、国王やリーダーだけでなく、その国の持つ文化や風習等も考量に入れて作成され、総合的な判断のもとに発行されるのである。

二千円札の発行の経緯を見ていくと、発行方針が急に決められたので、それを実行する迄の時間が限られていた。その結果として、文化や風習と言った点では十分な検討が行われないままに作業を進めてしまったことが分かる。日本の習慣として、割れる数値(偶数)を嫌がるので、二千円札は敬遠されるのではないかと可能性についてももっとよく考えるべきであった。例えば、これを三千円札にしていたら、お祝い金やお年玉を相手に渡す際も抵抗なく使用でき、もっと普及が進んだかもしれまい。欧米で20ユーロ札や20ドル札がよく使われているから、日本でも二千円札は普及するだろという日本の伝統や習慣を無視した安易な発想が失敗を招いたのである。

また、同じように、二千円札の表面に沖縄の「守礼門」を使用したのも、当時の関係者が歴史を十分に検証していないことの証拠である。二千円紙幣の発案者が沖縄に纏わる歴史的な背景や国際的な問題をあまり考えずに作業を進めたことがわかる。歴史書を調べるまでもないのかもしれないが、「守礼門」はもともと首里城の入口にある門のことであり、日本でいう大手門に相当する。琉球に中国の冊封使が来た際には国王が門まで出迎えて臣下の礼を取ることから、「守礼門」という言葉が生まれている。沖縄を代表する文化財であり、優れたものであるが、国が発行する紙幣に安易に「守礼門」という名称で門を描くことの国際的な影響についてはもう少し慎重に考える必要があったのではないだろうか。

最近、グローバル化、国際化ということがよく言われるが、もともと最初からの国際人などいない。グローバルな時代だからこそ、自国の歴史・文化をしっかり理解することが必要なのである。自国と他国の差異をしっかり認識した上で行動することが大切である。安易に他国の真似をすることがグローバル化、国際化ではないのである。