新製品を発売して成功に導くことは、新たな市場を創造することでもある。過去の市場創造の事例を見ていくと、生活習慣を変えることが新しい市場の創造に繋がることが多い。戦前の日本人は、米食が主食であった。確かに、木村屋のアンパンのようにパンを食べることはあったが、間食やおやつで食べることが多く、主食としてパンを食べるような家庭はまだあまりなかった。戦後になって、学校給食においてパン食が導入され、主食としてパンを食べる機会が多くなると、やがて一般の家庭でもパンを食べるという食習慣が広がり、今では米食よりもパン食を好む家庭が増えている。

戦後に大きく変わった食習慣がもう一つある。従来の日本人の食文化は、食事は家でするものであり、室外のオープンな場所で明け透けな状態で食べたり、歩きながら食べたりするという習慣はつい最近までなかった。オープンな場所で歩きながら食べるという新しい食習慣は、1971年にマクドナルドに銀座に一号店が出店し、若者が銀座の通りでハンバーグを食べながら歩くことが一つのブームになり、全国に情報発信されて、それが一つのきっかけとなっている。それまで、室内で食事をすることや仲間内で食事をすることが一般的だった日本人の食習慣が、米国からハンバーガーという新しい食文化が入ってきたことで、単に食べ物の中身だけでなく、日本人の食習慣を変えるきっかけにもなっているのである。

しかし、このような米国の食習慣を観察しながら、それを米国発祥の食品ではなく、日本人が発明した新しい食品に取り入れて、大ヒットとなった新製品がある。それが、日清食品の世界的なヒット商品「カップヌードル」である。

日清食品は、世界で初めてのインスタントラーメンである「チキンラーメン」を開発したことで有名であるが、創業者である安藤百福氏が米国に「チキンラーメン」の海外進出を目指して出張した際に、「チキンラーメン」を小さく割って紙コップに入れ、それにお湯を注いでフォークを使って食べるアメリカ人を見た。確かに、米国ではラーメン丼の器もなければ箸を使う習慣もない。カップにお湯を注いで、フォークで食べられるようにすれば、いつでも誰でも手軽に食べられる食品になる。そこで、そのアイデアを製造面で総意と工夫を行って実現し、製品化したのが「カップヌードル」である。

しかし、本当に問題となるのはここからだった。製品化をしてみたものの、インスタントラーメンに比べて割高であり、そもそも食事は家でするものということが当時の一般的な常識となっている日本の消費者には全く馴染みのない製品であった。この新製品をどのような方法で消費者に受け入れて貰うかが、新市場を立ち上げる課題となった。

次の設問は、この業界初の新商品「カップヌードル」が、発売時にどのような販売方法を使って市場を立ち上げたかを問う問題である。次の中から、正しいものを選んで欲しい。

 

 

Q12.日清食品は1971年9月に世界初のインスタントカップ麺である「カップヌードル」を発売した。これまで、世の中になかった製品であることから、市場導入にあたっても販売方法に工夫を行った。その具体的な販売方法とは一体どのようなものであったか。次の中から選んで欲しい。

 

①日清食品は世界で初めてインスタントラーメンを発売し、「チキンラーメン」は既に大ヒット製品となっていた。そこで「チキンラーメン」で開拓した広い販売網を利用して、販売店の店頭で「チキンラーメン」の隣に「カップヌードル」を置いてダブル訴求を行い、その知名度とブランド力を使って販売を行った。

②日清食品は「カップヌードル」がこれまで世の中になかった製品であり、「いつでもどこでも手軽に食べられる」という製品コンセプトを訴求するには、消費者に直接製品の良さを訴求する必要があると考え、全国に「カップヌードル」を食べることのできるファーストフード店を設置して販売を行った。

③日清食品は「カップヌードル」がこれまでに世の中になかった製品であり、「いつでもどこでも手軽に食べられる」ことができるように買ったその場で消費者が熱湯を注いで食べることが可能な専用の給湯機能付自動販売機を全国に設置して販売を行った。

 

A12.答えは③である。

・発売当初、「カップヌードル」は、販売店に売り込みに行っても、なかなか店頭に置いて貰えなかった。なにしろ、当時は袋に入った普通のインスタントラーメンが25円の時代であり、いくら直ぐにその場で食べられるから便利だと言っても、「カップヌードル」は一食100円するので、価格帯的にも販売店の店頭に来た消費者に直ぐに買って貰えるようなものではなかった。また、当時の日本人の一般的な感覚としても、室外で歩きながら食べるとか、立ったまま食べるといった製品コンセプトは、好ましくないものであり、良風美俗に反するという意見も多かった。

・そこで、日清食品は市場立上のため、これまでになかった消費者への新しい提案訴求と新しい販売ルートの開拓を行った。広告・宣伝面では新しい試みとして、若者が集まる東京銀座の歩行者天国に着目して、「カップヌードル」の試食販売を実施したところ、若者を中心に大勢の人が押し寄せ、多い時は一日で2万食が売れるなど大人気となった。そのトレンド情報がマスコミを通じて全国に広まり、「カップヌードル」の知名度は高まった。また、新しい販売手段として「カップヌードル」専用の給湯機能の付いた自動販売機を開発し、発売スタートから1年間で全国に2万台の自動販売機を設置して、これまでになかった新しい販路を開拓した。「カップヌードル」は、買ったその場で熱いお湯を注いで食べられるという製品コンセプトが、消費者が自動販売機を実際に利用することで、その場で体験できるようになり、物珍しさもあって大きな話題となった。

・このような市場導入のための新しい試みを行っている時に、「カップヌードル」の人気を決定づける大きな出来事があった。1972年2月に起きた連合赤軍によるあさま山荘事件である。このニュースが連日テレビで全国に流れ、その中に事件現場で山荘の周りを取り囲む機動隊員が、寒い中で「カップヌードル」を食べている様子が映し出された。それを見ていた全国の視聴者が、この食べ物は何だということになり、それがきっかけとなって、「カップヌードル」は全国で爆発的に売れるようになった。このようにして、短期間でこれまでに全く世の中に存在しなかった「カップヌードル」は新しい市場を確立したのである。

 

 

【ハンバーガーとカップヌードルの食文化とマーケティング】

・東京銀座は、日本の情報発信の場所として利用されることが多い。冒頭でも少し触れたが、マクドナルドが日本上陸のために初めて出店したのが1971年7月にオープンしたのが国内1号店の銀座店である。場所は、三越銀座店の1階であり、オープン初日に1万人が入店し、その日だけで100万円以上の売上げを上げている。

・当初マクドナルド本社からは、米国と同様に郊外型店舗の展開を行うよう指示があり、交通量の多い神奈川県茅ケ崎市近辺を検討していたようであるが、日本マクドナルドの社長である藤田田氏が「銀座が流行の情報発信基地であり、銀座で話題になれば事業は成功する」と判断して、国内1号店を東京銀座の三越銀座店の1階に出店したのである。それまで、日本人はハンバーグを食べることはほとんどなく、米国流に歩きながら食べるとか立ったまま食べるといった習慣もなかったので、銀座から全国にマスコミを通じて発信されたハンバーガーの情報は新しい食文化、新しい生活様式として、珍しがられた。そして、そこで生まれた知名度が、その後のマクドナルドの国内展開に有利に働いたと言われている。

・実は、その同じ年の数か月後、1971年9月に日清食品は若者が集まる東京銀座の歩行者天国に着目して「カップヌードル」の試食販売を実施している。当時は、日によっては一日で2万食を売るなど、大変な人気を集めているが、これも東京銀座の情報発信基地としての重要性を意識して、マクドナルドが行った方法を踏襲しているように思える。当時の日本人は、歩きながら食事をすることや立ったまま食事をすることは好ましくないという意識が強かったので、米国から日本に上陸したマクドナルドのハンバーグの食文化を利用して、日本生まれの「カップヌードル」にも食習慣の意識改革に応用しようとしたのかもしれない。