くだんの老教授は語る。

 

ここにいる皆さんは性善説・性悪説ということばはすでに知っていることでしょう。ところが、性悪説を説いた荀子のことをよく知っている人はあまり多くはないように思います。じつは荀子という人は無神論者でもありました。

 

 この教授が言うように、荀子は性悪説で有名な人物である。当時、流行していた老子の「無為自然」に反対した人物であり、礼や儀式といった「人為」を重んじた人物である。

 

 荀子の唱えた性悪説については、「人は生まれつき悪である」かのように解釈されることが多い。ところが、実際にはそうではなく、「そのまま放置してしまうと人間は悪に向かうので、そうならないようにする」と考えたのが、荀子の性悪説である。

 

 そんな「人為」中心主義の荀子は、自然物である天の運行と人間の行動との連関を完全否定した。

 

 「天の運行と人間の行動との連関」なんて言われると難しいが、くだんの老教授は雨乞いの儀式をもとに次のように語った。

 

昔の人は、雨が降らなければ雨乞いをしました。ですが、荀子は人間が行う雨乞いという行為(=人為)と天の運行(=雨が降ること)との関係を否定しました。雨乞いをしたって無意味であり、もしも雨乞いをしてから雨が降ったとしても、それは雨乞いをしたために降ったのではなく、たまたま偶然の一致にすぎないのだと言いました。

 

 このように荀子の言にしたがえば、雨乞いという儀式は「雨を降らせたい」という人間の願望をかなえるためにはなんの意味も持たないことになってしまう。雨乞いなどはやらない方がいいのだろうか?

 

 老教授は続けて語る。

 

ですが、荀子は「雨乞いをするな」とは言いませんでした。雨乞いを儀式として行うことによって、民衆は雨乞いという行為を神を祭るものとして信じ、雨を降らせることを祈願する民衆の気持ちを和らげることができます。もしも雨乞いという儀式をしなくなれば、それまで雨乞いによって和らげられてきた民衆の気持ち(=人心)はたちまち落ち着かなくなりましょう。

 

 つまり、荀子は雨乞いという行為と雨が降ることの関係性は否定したが、雨乞いという儀式によって人々に気休めが与えられる効能を説いていることになる。「気休め」のための雨乞いの儀式はしないよりもした方がいい。雨乞いという人為を通じて、人心を和らげることができるのも事実である。

 

 この荀子の「雨乞い論」を不妊治療にあてはめると次のようになるだろう。

 

不妊治療という人為を加えることによって、必ず子を授かる(=天の運行)というわけではない。ただ、不妊治療にも「気休め」ぐらいの効果はある。

 

ただ、老教授は続けて次のように語った。

 

ただ、「気休め」というものは恐ろしいものでもあります。先ほど、私が例にあげた雨乞いも、これを「儀式」として行う分には問題ないのですが、雨乞いをすることによって、民衆が「我々が祈願している雨を神さまが降らせてくれるのだ!」と過度に思い過ぎますと弊害が起こりましょう。

 

 つまり、雨乞いの気休めも度を過ぎれば「過度な期待」となる。人は思いが強ければ強いほど「気休め」として儀式を行うことができなくなり、雨乞いを「自分の願望をかなえてくれる絶対的な行為」として行うことになってしまう。

 

 不妊治療にも荀子のいうところの、雨乞いへの期待と同じことが言えるのかもしれない。「気休め」ぐらいの気持ちではじめた不妊治療に対して過度な期待を抱いたとき、願望をかなえらればなんの問題はないが、願望がかなえられなかったときの失望は大変なものであろう。

 

 実際、私の取引先のA氏(女性)も三十歳で不妊治療をはじめ、五年ほど行ったが、なかなか子を授かることができなかった。夫婦ともども精神的にボロボロになり、一切の治療をあきらめた二年後、三九歳で子を授かることとなった。彼女の場合、夫婦ともに問題があったそうで、医師からは「あなたたち夫婦が(自然妊娠で)授かれたのは奇跡だ」と言われたそうである。

 

 だから彼女は言う。

 

不妊治療なんかしないことね。無駄にお金を使うだけかもしれない。だったら、はじめから自然妊娠をめざした方がいいのかも。

 

 彼女のように、不妊治療をしても授からなかったのに自然妊娠で授かった人の話はたびたび耳にする。とすれば、不妊治療は不要なのであろうか?否(いな)、私は彼女が不妊治療をしなかったら、自然妊娠で子を授かることもなかったのではないかとも思えるのである。

 

 つまり「気休め」から行った不妊治療が「過度な期待」となって、それが高じて「失望」へと変わったという一連の変遷があったからこそ、彼女は自然妊娠できたのではないだろうか。

 

 私は冒頭で、荀子は老子の「無為自然」に抵抗した人物だと述べた。儒教は孔子にはじまり、荀子もまた儒者であった。荀子は老子に反対した。ところが、おもしろいことに、儒家を否定するはずの老子は、荀子の思想上の祖先にあたる孔子を利用して、自らの思想を展開している。くだんの老教授は次のように語る。

 

「道家の老子と儒家の孔子は正反対だった」と考えられる方は多いのですが、じつはそうともいえない部分もあります。じつは老子が書いたとされる『老子』という書物には孔子がたびたび登場するのです。むしろ、老子は孔子を意識して自らの思想を展開したと言えるでしょう。

 

 孔子の生没年はB.C551-B.C479、それからしばらくして老子が生まれたとされる。老子は記録が少なく、その実在も疑われる人物である。ここでは老子が実在したものとして論を進めたい。

 

 孔子が教育などの「人為」によって(もっとも孔子は教育以外のことも言っているが…)人を正そうとしたのに対し、老子は「無為自然」をとなえた。つまり、「上善水の如し」「柔よく剛を制す」のように、争わずして勝つことを唱えた。ただ、老子の思想は次の時代の荘子(?-B.C.310?)ほど徹底していないともいえる。くだんの老教授は老子と荘子の違いについて次のように語る。

 

老子と荘子の思想は「老荘思想」と併称されますが、じつは老子と荘子では異なる点があるのです。老子は人為を否定しましたが、荘子は「人為を否定することすらしなかった」といえましょう。つまり、荘子のほうがより徹底して「無為自然」であったのです。

 

 つまり、老子も荘子も天道(よりわかりやすくいえば「自然の摂理」)に信頼をおいたことは共通する。

 

 ところが、老子は人為を取り去って無為になったときに、自然の偉大な働きがあらわれるといった。それに対して、荘子は「人為を取り去る」ことすらしようとしなかった。

 

 老子は「人為」から抜け出すことをこころざした。ところが、荘子は「人為」すら「無為自然」とみなしたというべきか、あるいは「人為」というものを考えなかったというべきか…。

 

 今の私の能力では荘子思想を理解するのは限界に近く、くだんの老教授の講義ノートを見ても明快な答えはない。ただ、私が思うに、老子の思想は実行しやすいが、荘子の思想を実行するのはなかなか難しい。というよりも荘子の場合、実行するとかしないとか、そういうレベルの話ではないだろう。

 

 かりに私が老子と荘子に不妊治療のことについて相談すれば、彼らからは次のような答えが得られるであろう。

 

老子:不妊治療(=人為)をやってみたが、なかなか子を授からないだって?だったら不妊治療をやめてみてはどうか?人為を取り去ったところに偉大な自然の摂理があらわれる(=奇跡が起こって子を授かる)のだから。

 

荘子1:不妊治療?なんだそれは?まあ、酒でも飲もうや。

 

荘子2:不妊治療でも自然妊娠でもいいが、万事、自然が決めることで、どうにもならんだろ。

 

 荘子については自分自身、よく理解していないため、荘子の不妊治療論としては二通りの答えが思いつく。

 

 不妊治療という人為自体を考えない立場(荘子1)、不妊治療でも自然妊娠でもどっちでもよしとする立場(荘子2)、あるいは「第三の荘子」も登場するかもしれない(それはご自身でも考えてみてほしい)。

 

 話がだいぶそれてしまったが、上にあげたA氏のように、不妊治療をやめたら(自然の摂理があらわれて)自然妊娠したというのは老子的である。

 

 老子的に解釈すれば、A氏が自然妊娠したのは、不妊治療という人為をやってみたが成功せず、それを否定したからであり、人為を尽くすという段階を経ないことには、自然の摂理(=自然妊娠)はあらわれないということになるだろう。

 

 また、荘子(特に荘子2)ならばA氏のことについて次のように語るだろう。

 

荘子2:自然妊娠であっても不妊治療をしても、妊娠する時は妊娠するということさ。

 

 それに対して、儒家の荀子ならおそらくこのように言うだろう。

 

荀子:不妊治療という人為(雨乞いに等しい)を行うのなら、「気休め」ぐらいの気持ちでやった方がいい。天の摂理(=ここでは自然の摂理とも読み替え可能)と人為は関連しないのだから、過度な期待は禁物だ。

 

 まあ、老子と荘子、荀子が不妊治療について、本当にこのように語るかは保証の限りではないが、不妊治療をやってみる価値もあるということを老子と荘子と荀子から教えられたような気がするのである。

 

 次回は何を書くか決まってないが、また思いつけば書こうと思う(これも老子的)。