大学時代、「哲学思想概論」の授業で、先生がこんなことを言っていたことを覚えている。
老子がねー、「無為自然」と言っているのは、じつは「損して得を取れ」という意味が含まれると思うんです。老子の言ってることって、したごころ満載で、いやらしいんですけど...。
この先生は中国哲学の専門家で、この先生はいろいろと「すごい」先生だった。
老子。
おおざっぱにいえば、中国戦国時代(B.C.403-B.C.221)の思想家で、その実在も定かではない。「上善は水のごとし」、「無為自然」などのフレーズで有名である。
ここでは老子について語ることが目的ではないので、老子のことはこのへんに留めておく。
それならば、どうして私が老子のことを持ち出したのかというと、この先生が言っていた「損して得を取る」という考え方が、妊活中の者にとって励みのことばになるのではないかと思ったからだ。
「損して得を取る」こととなぜ妊活?
と思われそうだが、妊活をされている人の中に、こういう話を聞いたことのある人もいるのではないだろうか。
なかなか赤ちゃんを授からなくて苦しい思いをしていた人が、妊活をやめたり、妊活以外のことに注力するようになった途端に子どもを授かった。
ネット上にもこのような伝聞はあふれているし、私の周囲にもこういう人は多い。むしろ、一生懸命、妊活をやってない(ように見える)人の方が、子を授かることが多かったりするように感じることもある。
先ほどあげた老子思想の根源は「無為自然」にある。「無為自然」について、ごくごく簡単に言ってしまえば、「何もしない」ということである。
よくよく考えてみれば、子を授かるということも「無為自然」のなかで発生することなのかもしれない。
もちろん、「無為自然」の意図するところは、「本当に何もしない」という意味ではない。「本当に何もしなければ」子どもは生まれない。
先ほどあげた、先生が老子思想を評して「損して得を取る」という意味。これを妊活をする人にあてはめれば、次のように整理することができよう。
損:子どもを授からないと思って、子どもをあきらめて、残念に思う
得:子を授かる
少々、理論が飛躍しているようにも思われるかもしれないが、私が今からこれを実践することで、本当に子を授かることができれば、おもしろいではないか。また、「”子を授かることをあきらめる”という戦法で本当に子は授かるのか?」について、ひとつ実験をしてみたい。
ということで、今回は、(子どもを授かりたいので)子どものいないメリットについて考えてみることにした。
なお、「そんなしたごころ満載で、“子どもをあきらめる”なんて言っているということは、(心の底では)やっぱり子どもを授かりたいのだから、子どもを授からないのではないか」と賢い人から言われてしまいそうだが、くだんの「哲学思想概論」のほかの授業回で、そのお偉い先生は次のように言った。
みなさんは、憧れの人物の真似はしますか?私はお世辞にも男前とは言えない顔ですが、若い頃は○○(注:具体的な人名は忘れた)という、当時、有名だった俳優に憧れて、真似をしてました。でもねー、『徒然草』にこういうことばがあるんですよ。
そう言って、カンペを見ることなく、黒板に次のように書いた。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
引用するからには、ちゃんと解説したほうがいいのかもしれないけども、今はインターネットなどでも解説がある時代であり、訳については著作権に触れるとか聞いたので、とりあえず、原文だけをあげた(ちなみに『徒然草』それ自体の著作権は消滅している)。
先生が黒板に書いた『徒然草』第85段の意とするところは「なんでもいいから、とにかく最初は真似からはじめよ」ということだろう。あるいは、「真似」という実践を通して、人は学ぶことができると言ってくれているようにも思う。
中国哲学の専門家でありながら、日本文学の『徒然草』の一段が頭に入っていた先生はすごい人だった(しかも、「驥」の漢字がスラスラ書けるのがすごい…)。
今、この年になって、まさか大学時代の講義のことを書くとは、この時、思いもよらなかったけども、人間、勉強してて損することはないもんだとつくづく思う。
閑話休題。
(子どもを授かりたいという”したごころ”満載の状態で、)子どもがいないメリットについて考え、私も先輩ママたちの真似をしてみよう。
- 子どもがいないメリットのその1:自分の時間がたっぷり持てるということ。
これは誰しもが考えることだろう。子育てに時間を割かれることがないため、時間に余裕があり、自分のしたいことができる。趣味や仕事に没頭してもいい。これについてはアレコレ言わずともおわかりいただけると思う。
- 子どもがいないメリットのその2:スマートでいられること
子どもがいる人はどこか所帯じみている。もちろん、それがいけないというのではないし、子どもがいてもスマートな人もいる。ただ、子どもがいない人や独身の人は「自分づくり」に時間をかけられるせいか、どこか魅力的に感じることがある。
我が実母は結婚・育児で相当な苦労をしてきた人だが、若い頃の写真を見ると痩せていて、髪をのばして、娘の目から見てもキレイに見える。だが、今の実母の姿を見ると、もともとおしゃれに気を配らないタチということもあってか、お腹はダブダブ、お肌はガサガサ…。お世辞にも「スマート」とはいえない。子育ての苦労が実母を変えてしまったのか、それとも実母がおしゃれに気を配らないからなのか…。そのどちらが主因かは不明であるが、子育てによって自分の時間がもてなくなってしまうことはスマートさを欠いてしまう一つの要因だと考えられる。
※なお、我が実母の前半生については以前、ブログにまとめたので、興味がある方はそちらを参照されたい。
- 子どもがいないメリットその3:失うものが少ないということ。
何かの本で「子どもをもつことは弱くなること」と書いてある本があった。つまり、子ども──特に幼いうちは──を育てるあいだ、仕事をセーブせざるを得ないことがあったり、働きに行けなくなったりして、経済的弱者になりうるのである。「産休や育休を取ればいいじゃないか」という意見もあるかもしれないが、産休や育休を取得する分、働ける時間が少なくなるので年金の掛け金が減る。長期的な視点に立つと不利にはなる。
また、「今、空から何か落ちてきて死ぬんじゃないか」と思うほど、“超・杞憂体質”の私は、「自分や家族が(事故や事件など突発的案件によって)死ぬのではないか」と思うことが、人よりも多いと思う。もしも子どもがいたら、夫だけでなく、子どものことも心配しなくてはいけなくなる。子どもがいなければ、そもそも子どもを亡くすことがないので、無用の心配をしなくてもいい。失うものはなにもない。
- 子どもがいないメリットその4:“かすがい”がなくとも夫婦であるということ。
結婚、育児について苦労してきた我が実母は、よく私に「夫婦は紙切れ一枚(=婚姻届)で夫婦になり、紙切れ一枚(=離婚届)で夫婦でなくなる。」とか「子どもがいなければ夫婦はもたない」と言っていた。世間でも、こう言われることはよくある。一般的に、夫婦というのは血縁関係のある親子とは違って、結びつきが弱いと言われる。ことわざにも「子はかすがい」というように。
だが、「そんな紙切れ一枚の関係でしかないからこそ、子どもという“かすがい”がないにもかかわらず、ずっと離れずにいる夫婦は貴重である」と、逆説的に考えることもできる。よくよく考えてみれば、血縁もない、たんに意気投合して知り合っただけの「相手」とパートナーになり、ずっと一緒にいるということ自体がすごいのではないかと思えてくる。
たとえば、フランスの哲学者サルトルと、哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、婚姻関係を結ぶこと、そして子どもをもつことを拒否したが、生涯、パートーナーであり続けた。サルトルとボーヴォワールのような、“かすがい”がなくともかたい絆で結ばれている関係というのは貴重であり、高潔に思う。
子どもがいないメリットはほかにもある。むしろ、子どもがいないほうが心穏やかに人生を過ごせるのではないかとも思うほどである。だが、なぜか、世間ではサルトルとボーヴォワールのような例は珍しいものとされ、普通は「子どもをもつ=幸せ」として語られることが多い。でも、幸せというのは子どもを育てることだけにあるのではないにもかかわらず…。
子どもがいないメリットについて書いていくうちに気がついたことがある。子どもを授かりたいと思った理由が、案外、受動的なものだったということである。
子どもを授かりたいと思った理由・動機は人によってさまざまであろうが、多いのは「友だちや親戚の妊娠・出産」を見聞きしてというのが多いように思う。私はもともとは、実母が結婚・子育てで大変な苦労をしてきたのを目の当たりにさせられ、「子どもはいらない」あるいは「子どもを産み育てるのがこわい」と思っていた。
ところが、同世代の友人の妊娠の一報を聞きつけ、私も実は欲しいのではないかと思うように至ったことが、直接のきっかけであった。もし、同世代の友人が妊娠しなければ、今でも私は「子どもを産み育てるのが怖い」と思っていたかもしれない。意外と「子どもがほしい」という願望も受動的なことがきっかけであって、積極的な理由によるものではないのかもしれない。
冒頭にあげた老子の「無為自然」については、「なにもしない」という意味のほか、これには「ありのままを受け入れる」という思想態度も含まれている。子どもがいないという今の状態を肯定的にとらえ、ゆくゆくは「子どもを授かる」というメリットを享受できれば、それでよし。たとえ、子どもを授からなかったとしても、それはそれとして「ありのまま」を受け入れることができればいいのではないか。そのためにも「子どもがいないメリット」について考える価値は十分にあるだろう。
次回は、「子どもがいないメリット」について実例を踏まえながら考えてみたい。