フリーダ・カーロ 生い立ちと思想。 | アレな感じの日記。

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アレな感じです。脳内の妄想を覚ます事を目的に書いています。
・自分は特別な人である
・恋愛ボケによる自己アピール
をしないように、自らを戒めながら書きたいところです。

はわわんこねこへびと、ラブリーハッピーな皆さん、明けまして、おめでとうございます晴れ

2015年、大きな節目になりそうな今年、地道に自分の過ちを見つめながら、視点を正していきたいと思っています。

本年も、よろしくお願いします。


最近、気になっている存在、メキシコの画家、フリーダ・カーロ(Frida Kahlo)。

初めて作品を見た時は、なんと気持ち悪い作品を描く画家なのかと感心しました。グロテスクな数々の作品。
彼女の生い立ちを知ると、なぜそんな画風になったか、わかるような気がするのです。そして、自分との共通項を見つけるにつけ、自分の様々な解決すべき点を浮かび上がらせてくれるのです。

以下で、フリーダ・カーロの生涯を追ってみました。長いので、いくつかに分けて書きたいと思います。

マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón、1907年7月6日 - 1954年7月13日)は、メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家。 メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者としても数えられる。

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1907年7月6日
メキシコ郊外コヨアカンにドイツ系ユダヤ人である写真家の父と、スペイン人とインディオの混血の母との間に産まれる。姉妹は父の前妻との娘2人を合わせた姉4人と妹1人。
フリーダという名は、父が、ドイツ語で「平和」という意味の「 Friede 」から名付けた。メキシコ革命により、一家の財政は楽ではなかった。
1913年 6歳
急性灰白髄炎にかかり、9ヶ月間寝たきりの生活を送る。その時の影響で、右足が痩せ細り、棒足フリーダと呼ばれ、長いズボンやスカートで足を隠すようになる。以降、30数回の手術と28個のコルセットによって、絶えず背中と右足の痛みに苛まれることになった。
1922年15歳 
国立予科高等学校入学。「カチュチャス」というグループに入り、国民社会主義的考えに傾倒。グループのリーダー、アレハンドロ・ゴメス・アリアスと付き合うようになる。将来は医者になりたいと思っていた。
1925年9月17日18歳 
アレハンドロと乗っていた通学バスが路面電車と衝突、ステンレスの手すりが腹部を貫通して生死を彷徨う重症を負う。翌年、初めて描いた自画像をアレハンドロに贈るも、二人の関係は修復されず、アレハンドロはフリーダの友人と恋に落ち、去ってしまう。
1928年21歳 
通常の生活が出来るまでに回復し、知識人や芸術家が集うサークルに参加、メキシコ共産党に入党。共産主義闘争にも参加。壁画運動の旗手、ディエゴ・リベラの元に絵を見せに行く。ディエゴ・リベラは女性関係が派手で有名だった。
1929年8月21日22歳 
ディエゴ・リベラと結婚。ディエゴはこの時、43歳。フリーダは3人目の妻。リベラがメキシコ共産党の反感を買い、党員資格を剥奪されるのに伴い、フリーダも離党。
1930年23歳 妊娠するも、胎児の位置異常により、中絶。
1931年24歳 ニューヨークへ旅行。病状が悪化、夏にメキシコに戻り、冬に「ディエゴ・リベラ回顧展」の開かれているニューヨークに戻る。
1932年25歳 アメリカにて流産。メキシコに戻り母を看取るも、リベラとネルスン・ロックフェラーとの間にトラブルが生じたと聞き付け、ニューヨークに。ディエゴがロックフェラー・センターの壁画に レーニンの顔を描いたため、ロックフェラーはディエゴを解雇し壁画を壊した。ディエゴとフリーダは1933年12月に メキシコへ戻り、友人のフアン・オゴールマンが建てたサン・アンヘルの家に引っ越す。
1934年26歳 中絶。
1935年27歳 リベラが妹のクリスティーナと長く不倫していた事が発覚し別居。アメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持つ。フリーダはニューヨークへ旅行。
1936年7月28歳 スペインで内戦が勃発すると共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込むようになった。
1937年29歳 リベラの依頼により、スターリンに追われてきたトロツキー夫妻を生家に迎え入れる。トロツキーと関係を持つ。後にリベラは反トロツキーに転身。
1938年30歳 シュールレアリスムの指導者アンドレ・ブルトン夫妻を迎え入れる。ブルトンはパリで展覧会を開くことをフリーダに勧め、約束。秋、ニューヨークで個展。ニューヨークで、写真家ニコラス・マーレイと恋愛。ディエゴはメキシコに残っていた。
1939年1月31歳 アンドレ・ブルトンとの約束の展覧会「メキシコ」準備でフランスへ。ルーブル美術館が「The Frame」を購入。ラテンアメリカのアーティストの作品が飾られるのは初めてだった。映画俳優のエドワード・G・ロビンソンがフリーダの絵を大量に購入したことを契機に、アメリカへ旅立つ機会が増えていった。 フリーダの成功はアメリカでも驚きを持って報道される。
1939年4月31歳 家に戻る。フリーダはリベラと関係を修復したかったが、離婚手続き。
1939年11月32歳リベラとフリーダ離婚。体調悪化。この暗い時期こそ芸術家として最も実りある時期となり、「二人のフ リーダ」「断髪の自画像」「夢」「森の中の二人の裸婦」などが生み出された。
1940年1月 32歳
サンフランシスコで以降主治医になるエレッサー博士の外科手術を受ける。5月、トロツキー暗殺未遂で、ディエゴは警察から疑われるが、ボーレット・ゴダードのおかげで難を逃れ、サンフランシスコへ発つ。8月、トロツキー暗殺。
フリーダの信用していた人物が実行者だったため、フリーダも尋問を受ける。
1940年12月8日33歳 治療の為にサンフランシスコに行き、リベラと再会。再婚。
1941年33歳 父永眠。
1943年 36歳
メキシコ文部省のラ・エスメラルダ(La Esmeralda)絵画美術学校で教鞭を執る。
数ヵ月後には健康上の問題から学校へ通うことが困難となり、自宅での講義に切り替わった。
1946年39歳
当時恋人であったスペインの画家ホセ・バルトーリに、小さな卵型の《自画像》と愛用の品々を一箱にして贈った。箱の表蓋には「バルトーリへ、今日9月23日に、これらの品々とともに私の愛を贈ります。マーラ(フリーダ)」とあった。
1950年43歳 足指が壊疽にかかり切断、脊柱疾患の手術も繰り返され、腎臓の感染症や他合併症にかかり、9ヶ月入院。
1950年の9ヶ月に及ぶ入院と1953年の右脚切断の際には、ディエゴがフリーダの側に付き添った。 
1951年44歳 痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなる。
1953年7月46歳 右足壊疽の為、膝下切断。義足を使用することにより歩くことができるようになったが、リベラが「彼女は生きる気力を失った」と語っているように、ふさぎこむ事が多くなった。
1954年7月2日46歳 無理を押し、リベラが押す車椅子に乗って共産主義者のデモへ参加。
1954年7月13日47歳
2週間先の結婚25周年の記念にアンティークの指輪をディエゴに贈り、その夜、 肺塞栓症を起こして永眠。

1951年に制作された『父の肖像』の献辞に「私は父ギリェルモ・カーロを描くものなり。父はハンガリー・ドイツ系の出にして、芸術家であり、職業写真家である。こころひろく、知的で、そのひととなり貴く、勇敢にして、60年の長きにわたっててんかんに悩めるも、休みなく働き、ヒットラーにはむかった。敬愛する娘フリーダ・カーロ」とあり、フリーダ・カーロの思想の下敷きには、ヒトラーにはむかったという父親の思想があったと思われます。


また、フリーダは、10代から共産党シンパで、配偶者のディエゴ・リベラも共産党党員で(後に資格剥奪)、ロックフェラー・センターにレーニンの顔を描くなど、2人は思想的にも方向が合致していたものと思われます。


2人は芸術を通し、思想を共有する関係でもあり、この事は、2人を語る上で、外せない要素であると感じます。