妊娠経過~68 出産前夜…神への祈り | 『新種・負け犬』の私が産んだワケ

妊娠経過~68 出産前夜…神への祈り

27th APR 2005

夕食後、看護士さんから声をかけられて、

「牧師さんをお呼びしても大丈夫ですか?」といわれた。


牧師さん?って一体。。。

およびしても…って言われても。。。

いくつモノ不安が頭をよぎるのですが、ここはひとつ、うなづくしかない。


よく調べていなかったのですが、

敬虔なクリスチャンの考え方に基づいている病院のため、

出産の直前に、神に安全な出産を祈ってくれる…というシステムなのである。

(もちろん、計画出産だからこそ…なのか?

 普通、突然破水したり、陣痛が始まったりするんだし、祈っている暇はあるのか…など

 聞くに聞けない疑問もわくが、そこは、まあ大人になってあきらめた)


「牧師さん」というイメージが、おじいちゃまだったので、

当然、そういう方をイメージしていたのですが…


入室してきたのは、母よりは少し若いかな…という女性。

たたずまいが、精錬で、そこにいるだけで、空気が浄化されるような、

しんとした気がした。

その人の生き方が、

その周りの空気を作る…と実感させられた。


「一緒に、安全で守られた出産を祈らせていただければと思って、今日は参りました…」

と出だし。

クリスチャンでもない私は、一緒に祈ってもらうなど、初めての体験で、軽く緊張する。


話をしながら、

私が妊娠中期に1ヶ月入院していたこと、

生まれてくる子供が男の子か女の子か分からないままであること…なども

(看護婦さんから聞いていたのか)彼女が知ってくれていた、ことに気が付いた。


そして、最後の彼女の言葉…

「これまで、本当に長かったと思います。

あなたにしか分からない大変なことがあったと思います…

本当に、よくがんばりましたね。

 でも、どんなときも神は見守ってくださり、

 今、こうして、明日の出産までたどりつくことができました。

明日の手術も、神は、きっと、

DR伊藤とアリさん、そして生まれてくる赤ちゃんを守ってくれると思います」

というものだった。



気づかないうちに、

私は、どこか、とても遠くへ来てしまったような気持ちだった。


そして、

生まれて初めて、

私は満たされた気持ちになった。


なぜだろう…。

自分自身もおそらく幸せな子供だった。

多感な時期も、何不自由なかったし、社会人になっても、恵まれたスタートだった。

恋人も友達も、振り返れば、みんな色々なことを教えてくれた。

出会えてよかった人たちに、囲まれていた。


でも、ずっと、何かが足りなかった。

生物的には、「女性は妊娠中、満たされる」といわれていたが、

私にとっては、自分が自分でなくなるような分離感を感じただけで、

満たされることはなかった。

むしろ、色々なものを剥ぎ取られて、そして、自由を奪われる経験でもあった、

生まれてくる子供に会いたい、という気持ちは強い。

そして、何か未来を宿した明るさもある。

でも、満たされることとは、少し違っていた。


今まで、ずっと、走り続けてきた。

なんのために?


いつも何かが足りなくて、

いつも何かが、外側にはある。と信じていた。

事実、いつも私が外側へ飛び出すとき、新しいものに出会えた。

でも、また、そこでも、外側へ飛び出したくなる。

いつでも競争し、攻めるために自分を磨き、そして身を守るために磨耗した。

何かが満ち足りることはなかった。


今、初めて満たされた。

この10ヶ月の自分を、生まれて初めていとおしいと思った。

そう、まぎれもなく自分自身を。


「痛みに耐えた自分」

「がんばった自分」

「人に生かされてる自分」

「ちょっとダメな奴だけど、ママになる自分」

それでいいんだ。

とても大切な10ヶ月だった。

いえ、とても大切な35年間だったのだ。




そう気が付いたら、

私は、いままでになく、

急に、私は赤ちゃんが気になりだした。

どんな子なのか。

男でも女でも、それはどっちでもいい。

人間として、どんな人間なのか?どんな使命を背負った子なのか?

私は、気に入ってもらえるだろうか?

私は、何をしてあげられるだろうか?


現金なくらい、急に、意識をし始めた…初恋みたいに。


人は、まずは、

自分を癒し、

自分を愛せなければ、

人を愛する資格はない。


ということなのかもしれない。

と、

ずっとずっと、後になって気が付いた。


実は、その日は、わけもわからず、

一晩中、

急激に変わる自分に、ただただ付き合うしかなかった。