ハワイ島の聖山マウナケアでは現在、巨大天文台TMT(TMTの詳細はここをクリック)が建設されようとしています。
これに対し、地元住民を含め世界中の人たちが抗議して、今なんとか建設が始まらないよう、抗議活動(抗議活動の様子はこちら)を行っています。
ところで、この問題の中、今後キーになってくるのは各国の対応なのですが。日本が一番重要な鍵を握っています。(理由はこちら)
そこで、ハワイと日本の関係の歴史を少し見直していきたいと思います。
まず、日本とハワイは歴史的に非常に近しい関係にあったと言えます。
あまり、ハワイを知らない方でも多くの日系の人がハワイに住んでいることはご存知かと思います。
では、なぜ日系の人たちがこのハワイに住むことになったのでしょうか? なぜ、近しい関係と言えるのでしょうか? その根源をお伝えしていこうと思います。
まず、ハワイと日本が公式に関係を持ったのは、江戸時代とされます。(太古の昔にも行き来していた可能性もありますが、現在の歴史学的に分かっている範囲内で説明します)
1839年 次郎吉という日本の漁師が難破しアメリカの捕鯨船に助けられ、ハワイに降ろされます。ここで、次郎吉は約1年間ハワイに滞在しますが、この間ハワイアンの人々の間で、日本人の勤勉で、誠実な気質が理解されます。まさに、次郎吉さんのおかげというべきか、江戸時代の日本人の道徳心の高さが伺えます。その後1867年、時の将軍 徳川慶喜は日布親善条約を結びます。
この時代、ハワイではカメハメハ5世が王朝を注次いで、アメリカとのサトウキビ貿易が盛んな時代です。アメリカが虎視眈々とハワイを狙っている時でもあります。
この日布親善条約により後に明治元年者と呼ばれる、日本人の移民153名がハワイに来ることになります。この背景には次郎吉の評判もあり、日本人の気質が誠実で徳があるので、サトウキビの労働者としても期待できたというとことろでしょう。
しかし、最も日本とハワイの関係を近づけたのはハワイ王朝7代目のデイビットカラカウアです。彼は、世界一周をしつつ、太平洋諸国は一丸となって白人達に対抗しなければならないという、後に日本軍が掲げた、大東亜共栄圏(太平洋戦争の時に日本軍が掲げたお粗末なイデオロギーとは別)の魁を訴えました。
1881年デイビットカラカウアは、日本に訪れます。(このくだりの詳細はカラカウア王のニッポン仰天旅行記を参照してください)日本側にはハワイの国王であることは伏せていたのですが、アメリカ側の外交官から知ったのか、日本はデイビットカラカウアをハワイ国の国家元首と認め、横浜港にて最恵国待遇で出迎えます。さらにこの際、日本はハワイ王国の国家を演奏して出迎えたとあります。(当時、最恵国待遇とは上げ筒で21発の礼砲で迎える)今まで他の国では野蛮な国の人としてしか扱われなかったカラカウアはこれに大感動します。
そして時の明治天皇に謁見し、ハワイと日本はともに、西洋人に対抗(特にアメリカを警戒していく)するべきと唱え、かつその対策として、自分の姪っ子のカイウラニ王女と明治天皇の甥である山階宮の結婚を提案します。もしこれがなれば、ハワイが仮にアメリカに占領されることになろうとも、日本に軍隊を派遣するよう要請できるからです。
ちなみに、カラカウアは日本からの移民も受け入れたいと申し出ます。カラカウアの先験的な考えでは、日本人とハワイアンがゆくゆくはミックスして、DNA的にも病気に強い人種(ハワイアンは西洋人とのコンタクトにより、インフルエンザや性病などで人口が減少)に生まれ変わることを期待すると同時に、もしハワイが議会政治になった場合でも、人口の4割が日本人 ハワイアンが2割で 6割で白人中心の議会に対抗しようとしたわけです。
そして、もう一つカラカウアは重要な条約を日本と結びます。それは平等な条約です。
当時、日本が西洋諸国から近代国家として認められずに不平等条約を結ばされていたのですが、カラカウアは日本側の厚遇に痛み入り、国家として最初に不平等条約の撤廃を認め、正式に平等な国家として日本と付き合いたいと申し出ます。今現在の教科書ではアメリカが最初に、不平等条約の撤廃を認めたとありますが、実はこれはハワイ王国のことなのです。(後に、ハワイがアメリカになってしまったため、アメリカと教科書では記載されています)
さて、ハワイと日本の婚約ですが、日本側は伊藤博文などの海外進出穏健派たちからの声で、ハワイと同盟を結ぶことはアメリカを不必要に警戒させることから時期尚早とし、丁重に断ります。
1887年カラカウアは王妃とともに英国女王ヴィクトリアの在位50周年祝典への招待を受けイギリスに行っている間に、ハワイで共和派(アメリカ白人サトウキビオーナーの集まりで、ハワイ王朝転覆を企む派閥)がクーデターを起こし、国王の権限を大幅に削る新憲法に無理やりサインさせられてしまい、ハワイは完全なる議会制となります。
そしてカラカウア亡き後、8代目女王リリオカウラ二は共和派を打倒しようと、王政の権限を強化する憲法草案を議会に提出、否定されたものの、この動きに焦りを覚えた、共和派がアメリカ海軍に軍隊派遣を要請。1893年 リオカウラにをイオラニ宮殿に幽閉してしまいます。そして、共和派により王制は廃止され、共和派によるハワイ臨時政府がたちがります。
このことを小笠原沖で知った一人の日本人がいました。それは、後に日本海海戦(日露戦争)での英雄となったかの東郷平八郎です。彼は、非常に当時の国際法に明るかった人物でもあり、アメリカの共和派の行為は、国際法に反するとし、建前は、ハワイにいる日系の人権保護のためとし、即座にハワイに艦隊を派遣することを指示。
自らは巡洋艦「浪速」に乗り込み、他の巡洋艦「金剛」を引き連れ、ホノルル港に入ります。
そして、リリオカウラにを幽閉した、アメリカ海軍戦艦「ボストン」を「浪速」と「金剛」が挟み、砲を向けます。建前は、ハワイに住む市民の安全と保護に当たるものでしたが、本心はアメリカに対する威嚇であり、デイビットカラカウアへの恩義や天皇家とハワイのよしみに義理立てしたのでしょう。
「浪速」は3ヶ月間ホノルルに投錨し、一旦日本へと帰りますが、東郷は一年後またホノルルに戻ります。その際、ハワイ臨時政府(共和派の政府)から「建国1周年』に際し、礼砲を打てと催促されますが、東郷平八郎は「その正当な理由を認めず』と拒絶します。すると、ホノルル軍港にいた、各国の軍艦もそれに習い、結局一発の礼砲もならなかったそうです。まさに、リリオカウラにの気持ちを理解し、ハワイに同情し、日本人の心根をハワイに示したのです。
また、この一連の騒動の中、ハワイ日系新聞 「布哇新聞」は、ハワイ王朝の落日と日本の天皇家を重ね、ハワイの人々に同情耐えぬとして、涙涙の記事を掲載、多くの日本人がこの一連のアメリカの違法制圧に対し涙したと言われています。
その後の歴史は日系の人たちが苦労して、ハワイに生活の基盤を築く中で、太平洋戦争があり、日系は忠誠をアメリカに誓うアメリカ人として生きて行かざるおえなくなります。
その後、戦争から帰ってきた、日系2世や3世の人たちは軍から出るお金で、大学を出直したり、高学歴化し、ハワイの社会の上層部に食い込みます。その中で、残念なことに、日本人としての誠実さ、義理人情を忘れて行ったのでしょうか。それともアメリカ化して行ったのかは議論の余地がありますが、ともかくもヒエラルキー的な社会を作り上げて生きます。
一時は、ハワイの州関係のオフィスの8割が日系で占められるという事態にまでなります。その中で、ハワイアンの人々を虐げる政策も行ってきました。
近代においては、日系の政治家や権力者達は、ワイキキなど商業地区やリゾート地区の開発に日本のデベロッパーや企業を参入させ、ハワイの急激な物価上昇を招いて行きます。
また、日本人の海外渡航許可が下りた1966年以降 ハワイブームが起き(ハワイの日系政治家達の誘致による)色々な映画でもハワイが舞台となります。「南太平洋の若大将」などが有名です、そのご1980年代より、日本人の海外旅行先でハワイが堂々たる第一位となって行きます。
それにより、フラブームも日本で起き、ますます、日本人のハワイブームに火がつき、現在のハワイがあります。
このような背景を見ていただくとわかるのですが、ハワイと日本は昔から切っても切れない関係があります。今現在は、ハワイの文化を私たち日本人が学ぶことで大切なことに気づかせてもらったり、ハワイの豊かな自然で心や魂が安らぎます。常にハワイは日本人たちを受け入れ続けてきたそして、日本もかつては、その恩義を返し続けたんです。しかし、その関係は今現在は、いろいろな形で複雑化し、時にネガティブな関係でもあります。
実際に、マウナケアにおけるTMT建設の一番の推進国は日本です。また、異様なフラブームにより、間違った文化や歴史が日本に伝わり、ハワイアンの心を苦しめることもあります。
また、行きすぎた観光により、マウナケアを始めハワイアンの人たちの聖地が、日本人にとっての「観光名所」になってしまっている現実もあります。
だからこそ、それらを踏まえた上でもう一度、私たち日本人はハワイとのあり方を考えないといけないんです。かつて、東郷平八郎が見せてくれたように、誠実で徳がある日本人はどこに行ったのでしょうか?
今、私たちにとって大きな大きな恩義のあるハワイに皆さんで、このご恩を返すべきなんだと思うのです。私たち日本人の手でこのTMT建設を止めることができるんです。だから、諦めずにハワイの人たちとともに立ち上がりましょう。
