『道化師の蝶』(講談社文庫)を読みました。
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『道化師の蝶』
銀糸でできている捕虫網を軽やかに振りながら、「着想」という蝶を捕まえるエイブラムス氏。
エイブラムス氏が登場する小説『猫の下で読むに限る』は、希代の多言語作家、友幸友幸の作品。
けれど友幸友幸は行方知れず。
転居を繰り返す友幸友幸はいったい何処にいるのか?
彼の訪れた様々な土地の様々な言葉で書かれた原稿は其処此処に残されていた。
エイブラムス氏の友幸友幸大捜索がはじまる。
他一編。
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『道化師の蝶』は、登場人物の名前、友幸友幸(トモユキトモユキ)というネーミングも含めてコミカルな展開。
作中作があったり、語り手が変わったりはしますが、混乱するほどではなく一つ一つ、進むごとになるほどと合点がいきます。
読み終わった時、私の頭の中には何故か蛇が自分の尻尾に咬みついているイメージがありました。
色んな視点で描かれているお話が、ぐるっとドーナツみたいに繋がっているような感じ。
もう一編は『松ノ枝の記』。
著者と翻訳者、翻訳者と著者。
二人はお互いの国の言語をよく知らないまま、違うお話になってしまうのも全く気にせず勝手な解釈でそれぞれの作品を翻訳をします。
最初こそそれで良かったんですが、やがてしっちゃかめっちゃかに。
それぞれが翻訳して戻ってきた作品を更に翻訳する。自分の作品Aが翻訳されA'となった作品を、またもや自分で翻訳してA"となる、なんともややこしい作品が出来る。
もうそうなったら、原作まだだけど先に翻訳版出しちゃえ!とまで。
こちらもコミカルですが作中作が美しく、静謐な空気感がありました。
私事ではありますが、昨年の8月からはじめた翻訳講座。なんとか今も続けています。
半年経った今、自分の英語力だけでなく、日本語の能力、語彙力の無さを痛感しています。
普段何気なく使っている言葉、助詞の使い方を間違って身につけてしまっていることに気がつきました。
始めてすぐの頃は、原文を読んでただ訳すだけだったのですが、次第に著者の気持ちを考えたり、またそこに描かれた風景や会話を映像として捉えて、それを訳して伝えようとしました。
けれど読者は文字を追っています。
過剰な説明より読者が想像する余地を作るということの大切さを教えて頂いた時は、ガツーン!と来ました。
作家のみならず読者のことも考えなきゃいけないんだと、当たり前のことを忘れていたりして。
究極は翻訳を感じさせない翻訳。
なんとなく自分の中で、翻訳された作品の読み方が変わった気がします。
実は2冊あるんです。
Facebookで講談社をフォローしていて、気に入った本だと献本プレゼントに応募してたんです。
でも、今までただの一回も当たったことがないので、まぁ当たらんだろうと買っちゃったらこれです。
そうだ。今年、私は大吉だったんだ。
次はもう少し待ってみよう!
…ってもうこれで今年の運は使い果たしてますな(^_^;)
