今日は少し、発達障害の子が併発(、でしょうか?)しやすい「二次障害」のことについて書いてみようと思います。

 

二次障害といっても、色々だと感じています。

 

・心身のエネルギーがない、生きる元気、やる気がことごとく消滅している感じがする

 

・ネガティブなことばかり考え、かつ嘆き、一歩も前にすすめない

 

・神経質になり、強迫性的な思い込みで凝り固まっている

 

・悲しみ、怒りの感情が増幅して、喜び、楽しみの感情が喪失している感じがする

 

ような状態でしょうか。日常生活がたちゆかないぐらいに、心身のエネルギーが失われている状態、という風に感じています。

 

私達は、心身の健康が第一と考え、そもそもエネルギーがないと「何もできない」のが現実としてありますので、生きていくため、食べるため、少しでも楽しいことに出会うため、自分を支えるため、そうした基本となることを実現するためにも、「健康」という状態をキープしようと努力しています。

 

その「健康の継続」の先に、自立や集団生活、社会生活が待っているのであり、健康が失われている状態では自立や集団生活、社会生活に入ることもできない、入っても活動できない、というのが現状と考え、二次障害の予防を大事に忘れないようにしています。

 

では、「二次障害を予防する」というけれど、どうすればいいのか、という点ですが・・・

 

私達の場合、「子どもの素の状態を忘れないこと」かな、と思います。

 

子供は、年齢とともにどんどん成長します。引っ込み思案でしゃべらなかった子が、高校生では快活に学級委員をやったり生徒会活動をしたりという事も出てきます。「成長したなぁ」「変わったなぁ」とは、よく言いますが、そこに「性質が変わったなぁ」と言い切れない思いは伴います。忘れないようにする部分がある、ということでしょうか。

 

発達障害の子の特徴として、「見た目や言動では、その心の中がわかりやすく出ることがない」というのも、用心する理由の一つです。

 

よく、「にやにや笑っている」という発達障害の子を表現する言葉がありますが、楽しくて笑う子と、緊張して笑う子と、パニックでひきつって笑って世界を遮断している(自閉している)子と、いろいろいます。

 

笑う=楽しい、ではない表現の仕方をするので、定型の人が見ると「大丈夫じゃないの。笑ってるし。深く考えてなさそうよ。」というケースが

「緊張してパニックしている」「判断力が無くなるぐらいに混乱して、現実から遮断して自閉している」ことがありうる、ということです。

 

この場合、子供の特性を知らない状態で1年、2年、3年と過ごすと、当然のこと、心理的な負荷がかかり続けた年数分、未熟な子どもはストレスにさらされて、子どもでもうつ病のようになります。その表現がまた、泣いたり、わめいたり、暴言・暴力だったり、ただ何も言わなくなり、眠り続けたり、無気力になって、「どうでもいい」と自分に無関心な言動をしたり、と、定型の人にはわかりにくい表し方であったりします。

 

よって、ただ嫌なことがあったんだね、とか、最近学校で上手くいってないのかな、と「一時的・単発的な」癇癪や荒れ方だと思われて、一時的な対処をされたりします。が、好転しない、ずっと続く、繰り返し何年も同じ状態が続く・・・

 

この段階になってくると、学校へ通えなくなったり(エネルギーを使い果たしてうつ病のようになっている)、学校へ楽しそうに通っているはずなのに、勉強や運動、行事、いろんなことに情熱の欠片もない、投げやりだったり無関心だったり、言動の結果を「見ないように遮断している」状態に、おかしいな、自分のことなのに「自分がしていることを見ようとしない」気がする、という風な、少し違和感が感じられるようになってきます。

 

表に、わかりやすく心の状態が出ない、定型の人の常識の範囲内で見て判断できない、ということが、こういう不都合を連れてきて、気が付いたら「動けなくなった」とか「学校活動や家庭での生活が壊滅的」だとか、ボロボロとできない事が増えてきたり、管理できないことが増えたり、ぼーっとしたりミスすることが増えたり、等々の「足跡の崩れ具合」でやっとおかしさに気が付く、ということになるかと思います。

 

子供が残している足跡は、そのまま「小さい頃の、子供時代の、とくに2歳、3歳のころの性質」と照らし合わせると、理解できることが出てくると思います。

 

成長して、10歳になり、15歳になり、体も育ち、そこそこ社会に・集団生活に対応できていると思っていた頃に、なぜか二次障害が出てしまった。そういう場合は、小さい頃のいわゆる「特性」という、生まれた時にすでに持っていた性質を参考にすると、「成長した今の二次障害の理由」がわかるケースがあります。

 

どんなに活動的に、立派に成長したように見える子でも、「負けん気が強くて1番病で、癇癪がひどくて、納得するまでテコでも動かなかった」性質の子は、それをプラスに利用していただけであり、その特性が「消えた」わけじゃないです。その特性は身に備えたまま成長します。

 

よって、対応できている、工夫してそれなりにやっている時には「マイルドになり、消えたように見える特性」なのですが、ひとたびその子のキャパシティーを超えるような現実に直面し、それが長期間悩むようなことになると、「突然崩れた・突然、不登校になった」ような状態に移行することもあります。

 

その前に、「あれ?少し、頑張りすぎてないか。今までは余裕があったみたいなのに、最近高校生になってから、全く余裕がなくて、頑張って偉いけど、必死すぎる気がする」と気づけば、本人が突入している「思い込み、キャパシティーを超えた挑戦を限りなくして達成しようと頑張りすぎている・自己コントロールがきかなくなっている」という部分で、本人にブレーキをかけることができます。

 

二次障害に突入する前に、なぜ過去は上手くいっていたのか、なぜ最近は上手くいかないのか、ということを振り返り、過去の成功体験を軸に、「やりすぎている現在」にブレーキをかけられるように、リセットしたり、休息したり、例えば学業と部活の両立が限界なのだから、どちらか一つの優先事項を決めよう、進学は浪人でも可、とするなど、方向転換が必要になってきます。

 

頑張る子は、結果を出している分、つい親も「子どもの意思に任せよう。いままで立派にやってこれたから」と思ってしまいがちなんですが、これで過去、私達の一族は「かわいそうなことをした、なぜもっと気をつけてやれなかったのか」という経験もしています。

 

頑張っている子に諦めさせる、というのではないのです。両方を、望むようにするのに、現実のスキルと能力では無理がある、と分かった時点で「優先順位を決めよう」ともちかけ、親ができる範囲でバックアップを約束する、それぐらいでいいわけです。子供も子供なりに考えています。

 

一人で考えて、結論を出したうえで無理に頑張っていることが多いです。よくあるのは

 

・転校したいけど、絶対この学校で頑張らないといけない。先生もみんな登校することを望んでる。そうしたいけど、でもできない。(でも頑張れないから不登校、無気力、寝込む、動けないなど)

 

・今まで頑張ってきたら、その自分を学校のみんなが好きになってくれた。ここでダメな自分を見せるわけにはいかない(家でダメな自分を見せまくり、荒れ放題、暴言するなど)

 

・部活で結果を出したいし、出せそうだ。でも進学も頑張らないと浪人や私学の費用まで親に求められない。でも両立があきらめられない。

 

・クラスや部活で友達とこじれた。先生や親に言うと心配させるし、言ったところで現状は変わらない。毎日が辛いけど我慢するしかない。

 

・今までは対応できていたけど、急に勉強がわからなくなってきた。でもこれ以上どうしたらいいかわからない。

 

などでしょうか。頑張っている子も、一歩先は崩れる寸前、ということは結構あります。そして、平々凡々と「学校はまあ、普通。良くも悪くもないかな」と言っている子が、実は何か抱えてたり、というのもよくあることです。年齢が上がれば、親へ言う事も減ってきます。自分の「恥ずかしい」とか「心配させる」という気持ちから隠すことも増えてきます。そしてさらに悪いことに、表情や言動では、笑顔かつらそうか、など定型の人の判断できる・理解できる常識内の表現をしないので、見てとれない、聞いてわからないことが多いです。

 

ですので、「小さい頃の特性」を親の方が忘れないことで、何度か成長過程でチェックしたり予防したりすることが、効果的だったりします。

 

例えば、小さい頃を知っていて、その性質が子供の身の底にあるとわかっていて、学校の個人懇談で、先生から「特に問題はありません。勉強も、学業も上手くやっていると思います」と言われて、安心できるかというとそうではありません。「ん?うちの子、そういう子だったかしら。」と思う事がほとんどの親族です。

 

「お友達はいつも同じ子といるんですか?」

 

「グループでの発表とか作業の時、うちの子どうしてます?」

 

「板書とか、移動とか、ワンテンポもしくはツーテンポ以上、遅れてませんか?」

 

「何もせず・言わずにずっと座ってることってないですか?」

 

とか、自分の子の「小さい頃からの性質」を知っていると、こういう質問が出てきます。

 

そのうえで、先生から「ああ、そういえば・・・」と、最近は仲良い子とは違う友達といましたね、とか最近は一人で本を見てますよ、とか、ゆっくりさんではありますよね~、とか、そういう言葉を追加でいただくとしたら「やっぱり、ちょっとずつ何かあるんだろうな。」と思います。

 

定型の人にわかりにくい・見えてないだけで、ちょこちょこ、毎日困ってて、でも大丈夫そう、と思われて過ごしてる。周囲の人が「大丈夫」と思っているけど、本人は「毎日、少しずつ、でもずっと継続的に困っている」という状況にいて、それがどれぐらいその子に負荷をかけているか、は結果として二次障害に出てきます。つまり、「継続的にちょっとずつ困る」ことに、発達障害の子はじわじわ、真綿で首を締める感じで追い詰められていくことがある、という、親としては嫌な状態です。

 

発達障害の子の学校への行き渋りや不登校は、「突然」発生したように思えますが、真綿で首を締めるという状態の最終段階だと私はいつも感じています。ですので、その途中で気づいてやり、「継続した負荷」から一時的でも開放して、消滅しているエネルギーを蓄える方に舵を切ると、また何となくリセットしていける、そういう綱渡りですが、それを「とりあえず安定」として過ごしていきます。

 

定型の人の安定した状態とは違い、非定型の子の安定は「綱渡り」なことが多いと思います。特性が無くなったわけじゃないので、いつ、負荷が溜まりすぎてパタッと倒れるかわからないです。特に集団生活の、普通級などで「普通に」生活していると、負荷は「普通に」非定型の子には支援なしのマックスでかかっているわけですので、実は支援級にいるより注意深く家庭で支援していく必要があります。

 

これは単に、

 

「人数分の接触・発言・反応・刺激に疲れる」とか

 

「人数分の音、騒音に疲れる」とか

 

「個人的な指示ではない、一般的な指示なので集中力や、無駄なことと自分に必要なことの選別・判断力に常にパワーがいるので疲れる」とか

 

そういう、人数上の物理的な問題でかかる負荷がほとんどです。支援級の子は堂々とイヤーマフをしていれば聴覚過敏を遮断できますし、パーテーションなどで刺激も遮断でき、人数が少ない分、騒がしさや忙しさには余裕が持てます。集中力や判断力は普通級の大人数と大勢の中での「できるかできないかは本人の集中力と散漫にならない・心を配る力次第」という荒行ではなく、先生から個人的に指導をもらった上での集団生活上の判断や分別を学ぶので、受ける負荷の量が圧倒的に異なります。

 

よって、発達障害の子で普通級でとりあえず頑張れる子の場合、聴覚過敏をそのままにしておくだけでも年数を重ねればそれはかなりのダメージになるので、家庭でも「小さい頃、耳ふさぎしてたなぁ・・・」とか「ピストルの音がダメだったなぁ」「ちょとした音でびくびくして、泣いてたな」という子は、頑張れる・耐えられるようになっても、変わらず辛いのだ、という視点は失わないようにして「イヤーマフは目立つから、音楽用のイヤホンしてみようか*(文末に参考に載せておきます)」と、提案したり、小さい頃から持つ特性の部分を軸によりサポートをしておいたほうが、二次障害につながりにくい、ということは言えると思います。

 

難しく考えず、ガス抜きと考えてください。

 

他の特性部分でも、そのままにして「成長したから耐えられるようになった。無難に過ごしてるし、先生も問題ないと言うし、まあ大丈夫だろう。」と思うよりは、途中過程でチェックして「周囲が知らないだけかも」とか「普通にしてるし、でも見てわからないだけで、悩んでいるのでは」という視点で時々、ガス抜きをする、という風に考えてフォローするといいかと思います。

 

 

音楽用のイヤホンは大きな音だけ遮断します。ライブに行くときに使う親族がいますので、大きな音が無理な人には聞きたい音(会話)が落ち着いて聞けるので快適かもしれません。音楽の授業でも使えます(音は聞き取れる)。ただ、聴覚過敏の子に効果ある子と、全くそれでは効果なし、という子がいますので、それぞれの特性にあわせてこうした支援道具は利用してみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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