私達の一族は、生まれてきてから小学校卒業するまでの期間が一番、発達凸凹のある子供達に深く関わっていると感じます。そしてそれは、意識的にしている部分もあります。今日はその理由について、書いていこうと思います。

 

子供達は、いつまでも小さい可愛い子供達ではいてくれません。すぐに背は伸び、思春期を迎え、親へ反抗し、口をきいてくれなくなったりします。その時が来て、「関わっていこう」と思ってもなかなか、すんなりいかないのが「そういう時期の子供」なのだと感じています。

 

一番私たち大人が困る状況に陥るケースとしては、子供達の特性が強く出てしまっている時に親を含め他人不信に陥る思春期に差し掛かるときです。思春期は止められませんが、「特性が強く出る」ことに関しては、小さいころから取り組んでいれば、せめて「強く・色濃く・自分が混乱するほどに悪い方に出る」ことを回避する程度には止められます。

 

特性はなくせませんが、特性はあっても、それが極端に出過ぎないようにマイルドにしていく、そのコツコツの積み重ねを小さいころからやっていくのが今言う所の早期発見・早期療育にあたる対応なのかな、と考えています。

 

一族のこれまでの経過を振り返って思うのは、保育園・幼稚園、小学校時代にいくら七転八倒しようとも、幼稚園へ行かずとも、小学校をたびたび不登校しようとも、長い人生の中で「成人し大人になった時に」それほどネックにはなっていません。

 

逆に、乳幼児期、児童期という時期に特性から生じる集団社会の中での摩擦、問題の限りを出し尽くして、その問題を「課題」としてああでもない、こうでもないと取り組んできたことが、結果的には「具体的な経験の積み上げ」となって、中学、高校、大学と成長していくときに「乳幼児期、児童期の経験を使う」時期に入っていくことができています。

 

一番しんどい時期は、やはり小学校時期ですが、この時期は周囲の子供達、同級生も「心の中をすべて出す」ような時期なので、

 

「嫌っていれば素直に態度・言葉に出す」

「嫌なことは指摘したり批判したりする」

 

という忌憚ない子供独自のストレートさでぶつけてくるので、親族の子供達でも「他人がどう感じでどう思っているのか」をつぶさに、ストレートに見たり聞いたり体験できる時期でもあります。人の心の暗い部分も全部、生き物としての本能も全部、この時期に経験できるわけです。

 

人間は大人になったら「理性的な歪みや暗さの全くない人物になる」とは限りません。人は心の中に、子供時代と変わらぬ「感じ方」を維持していると思います。ただ子供との違いは、「子供時代にはストレートに責めたり、嫌がったりした言動や、自分の嫌な部分を、あえて見せない・言わない」ようになるだけです。諍いをしないため、無難に過ごすための知恵でしょう。そして、「嫌い」「嫌だ」と思う人間を相手にしなくなります。

 

私達の発達凸凹のある子供達が、人から嫌だとか、嫌いだと言われている「内容」について無関心であったり、それを取るに足らないこと、もしくは傷つけてくるだけのこと、として耳を全部完全にふさいでしまうと、結果的には、大人になって「嫌い、嫌だ」と思われる大人になり、自然と疎外され、無視され、孤立することにつながっていきます。

 

集団社会で生きて行くという事は、その大勢の人間がとてもとても不快だ、とか、とてもとても嫌だ、我慢できない、と思う内容を、知っておく必要はある、ということです。

 

そして、「知っておく」ことによって、自分を変えられないと思うような特性でも「嫌がる人の目の前でわざわざやらない」という手法をとることはできます。子供時代に教わっていたのなら、大人になった時に「相手を不快にせず、自分も無理をしない」ような方法で生き抜くことができるようになっていきます。

 

この、乳幼児期、小学校の児童期に積み重ねたものが発揮できるかどうか、というのが顕著に見られるのが「中学校」という環境であるように思います。

 

小学校とは違い、周囲の同級生達は大人の仲間入りをしはじめ、理性的になり、落ち着きも身に着け始めてぐんと成長していく時期です。その時期に、発達凸凹のある子供が共に過ごそうとすることは、今まで培ってきた「経験」を駆使していくことができるかどうか、という結果を見ることにもつながります。そして当然、「上手くやっていける」完全な完成形というのは見たことがありません。どの子もその子なりの課題を抱えています。

 

最近でもあったのですが、小学校時代に随分と自分自身に理解を深めていたと自負していたはずの親族の中学生の子がこんなことを言っていました。

 

・今思えば、色々あったけど、小学校は中学よりもごまかせる環境だった。

 

・ふざけたり、悪いことを次々にする子が必ずいて、目立ったやんちゃな子もいたり、人付き合いの悪い子がいたり、同じようにぼっちの子もいて自分だけ最悪なわけじゃなかった。

 

・勉強も運動会も、それなりに適当にごまかせたし、休んでも気にならなかった。

 

・中学は自分と比べたら、みんな急に「できるやつ」になって、制服着ているからか落ち着いてて、授業もすごい聞いてるし、小学校みたいに自分の欠点をごまかせない。

 

・変なやつは究極に目立つし、目立つけど、小学校の時みたいに相手にされない。そういうやつはただ「いないやつ」みたいに放置される、っていうか、気にもされない感じ。みんなそれぞれに自分たちが楽しく過ごしてて、それ以外にそれほど関心がない。楽しくないやつに気が付かないし気にする必要もないって考えている感じ。

 

・自分だけが急に取り残されたみたいに感じて、この半年はすごく緊張したしきつかった。

 

・中学の先生達も、科目でいっぱいいるし、小学校の頃よりずっと「親っぽくない」し、本当に先生、大人、って感じで、今さら子供っぽいあれこれの言い訳とか悩みとか話せない感じ。中学は、レベルが違う(高い)って感じる。自分の子供レベルの場所ではないな、って感じ。

 

ということでした。

 

こういう感想は、中学になってからよく聞きます。

小学校時代は一緒にふざけていた子たちが、他の小学校から合流した新しい友達ができて、ぐんと遊び方も付き合い方も大人っぽくなり、部活動や高校受験にそなえて中間・期末テストを頑張るようになり、小学生時代のいいかげんさや、わーわーした子供っぽい遊びだけを楽しんでいた時期をすっかりと抜け出して、さっそうとしていると感じるようです。

 

もともと対話や人付き合いが苦手だった子達は、「子供時代の何でもストレートに言う」時代から「思ってることは心に秘めて、当たり障りないことを選んで話す」というコミュニケーションレベルに格段にアップしている同級生のことがますます「わからなくなる」ので、疑心暗鬼になったり、人間不信になったりします。

 

人間不信になるのは、自分が色々勘ぐるからでもあり、相手が「たた自分に関心がないのだ、相手は自分が好きな相手と楽しい時間を過ごしていて、自分には関心が向けられていないのだ」ということがわからないでいることも多々あります。

 

いつまでも、何でもストレートに嫌だとか嫌いだとか言ってくれていた同級生ではなく、遊ぼう、話そうと向かって行っても「関心を持ってくれない」手ごたえのないうわべだけの対応をされるので、親族の子達は「小学校時代の付き合い方からなかなか変われない」特性を維持していればいるほど、たじろぎ、混乱し、相手がわからないことを怒りや被害妄想で自分なりに解釈して理解しようとするので精神的な状態が悪くなることもあるわけです。

 

ですので、あらかじめ「中学になるとみんな、急激に大人になるから悪ふざけもあんまりしなくなるし、いざこざを避けて、誰かと仲たがいしないように小学校みたいにそれ駄目だとか、やめろとか、嫌だとかの本音を言わなくなるし、恋話とか、部活動での付き合いとか、高校受験のための勉強とか、小学校とは全く世界の違う話の内容や付き合い方になるよ。」と小学校時代に言い聞かせて、その中学という特殊な、大人の仲間入りをする環境でびっくりしないように、知識付けや経験重ねをしていきます。

 

小学校時代のギャングエイジ時代は、同級生の子供達が素直に赤裸々に心の内部、色んな暗黒面を見せてくれる最大のチャンスであり、課題として取り組むには「わかりやすい問題の出方」をするので、とても助かる時期でもあります。この時期に苦労したり悩んだりしたあれこれは、必ず中学という時期に「同級生の心が表に出ず見えなくなってきた時に」役立ちます。

 

中学生になったら、わざわざ言わないよ。やめてとも、そんなことするなとも注意しないよ。それはただ、頭の中、心の中で「思っているだけ」で、ダメなことや悪いことをしている人個人の問題だと、割り切ることができる大人になっていくよ。だから、小学校で気を付けていこうと学んだことは、引き続き中学で自分なりに続けて対策をやめなければ、それなりに平和にやっていけるよ、人の心が読めなくなる、わからなくなるのはとても当たり前で自然なことだよ。

 

だから仲良しのグループは、共通の趣味や活動を楽しんで、その楽しさの中で言葉で互いの楽しさや気持ちを伝えて「仲良しだと安心するため」の行動を取るんだよ。

 

等々と、自分たちの経験をもとに話していきます。子供達なりに同級生は成長している、自分はそれを理解しないと、合わせることが難しいと肌で感じているので、小学校時代にこうした話をした時よりも、中学へ入学してからの方が真剣に話を聞きますし、また色々と質問もしてくる傾向が見られます。それだけ、小学校という環境から中学という環境へ移った時のとまどいや困難は大きいのだと思います。

 

どちらにしろ、保育・幼稚園、小学校時代のような特殊な未熟な子供が集団で生活をするような環境はその10数年間だけで、多くの人生は中学以降、高校、大学、社会という大人社会で過ごしていくことになります。

 

「小学校という環境がすべてだ」と盲目的になり毎日を四苦八苦して生活している子ども達に、そうではない、それは一時的なもので、保護期間であり、水槽にいるようなもの、小学校で学ぶことは、その後の「放流された広い世界でどう自分だけの力で泳ぐか」という自分の力だけで生きていくための、練習だ、という目の前の世界だけをすべてと思わないように子供の視界を刺激しています。

 

変化が苦手な子たちには、「これからこう変化していくのだよ。」という前知識をくどいほど入れていくことが、中学という環境へ入っていったときのソフトランディングになるからです。

 

中学の環境は、「聞いていたけれど、こういうものだったんだなぁ」と言いやっと落ち着きはじめている親族の子達の感想をもとに、書いてみました。

 

 

 

 

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