私の家族も親族達も、ほとんどが発達障害を抱える人間で、かつ未成年者は不登校が多いです。


成人するまでに小さい頃から少しずつ自分の歩む道を決めていき、自立し、大学か専門学校を卒業する頃には自活することを当然だと育てられてきました。それは三つ子の魂100までも、という状態で刷り込みされてきました。

自立、というのは、私達には動機づけや目的をはっきりと明示されないとあやふやな概念であり、わかりにくいものですが、わかりやすいように大人達は教えてくれました。それは家庭内のルールであると同時に、生きる事の柱とされているからこそ、親達や年長者達のきっぱり、はっきりとした主張を支えにすることができました。


発達障害の子達は、未成年時期というのは社会から孤立している状態です。不登校をすると集団社会とも接点はなくなります。こうした状況であるのに、一族の大人達は「社会での役割がある。大人になれば、社会人として義務と責任は果たさないといけない。」とも教えてきました。矛盾は感じませんでした。なぜなら、説得力があったからです。



子供時代は、自分に力をつけるために勉強しろ。

一人で生きていく生活力は、学ぶことから始まる。

学力を備えれば、自分がやりたいことをやっていける突破口が見つかる。スタート地点に立てる。

子供の時代に、自分らしく生きていける技術を身につけなさい。


こうしたことを日々、小さい頃には言われていました。そして、同時にこんなことも聞きました。


日本人であるというだけで、日本という国は災害や深刻な事態には助けてくれる。

自分達がどうにもできない事態を手助けしてくれるのは、集団社会だ。

大人になって税金を納める義務があることを覚えておきなさい。

日本人の大人が納めた税金があるから、地震や水害で困った時に人を助け、また自分達も助けられる

一人で対応できることとできないことがある。社会の役割は一人でできないことを可能にすること。



そして、祖父や曾祖父の世代から、子供が集まるたびに言われたことがあります。


今の時代の、食事に恵まれ、飢える事のない社会であることに感謝をしなさい。

1日に1度もまともな食事ができなかった俺らの時代があった。

不自由のないように、便利であるように、町も物も創り出してきた。

人は皆で頑張って平和で安全に暮らせるようにした。

大人になれば、自分達の小さいのを守るために頑張らないかん。

人としての役割がある。大人になれば、自分のことだけでは家族は守れない。

お前たちにも、人の役に立つ役割を必ず担う事が出来る。




田舎にも、過去数回、大きな自然災害や地滑りなどもありました。小さな集落がここ、あそこにあっても、その力だけでどうにもならないことが多々あります。そういう時にさっと来てもとの安全で、平和な状態にもどしてくれるのは、国から出動した大人の集団です。そうした社会というものは、ただ何もせず手に入ったものではない、大人が考えに考えて、工夫に工夫をして、やっと作り上げた社会組織なのだ、ということを貧しい時代を知る年長者達は口ぐちに子供達に教えました。


私達の子供の頃は、裕福ではなかったですが、すでに平和で何も衣食住には困りませんでした。それが一人で作り上げたものではありえない、社会というものがあり、大人全員が何らかの形で参加して長い時間をかけて少しずつ実現してきたのだ、という歴史を聞かされました。



子供と言うのは、特に発達障害の子達というのは、自分の目先の悩みや苦労、あるいは欲望や楽しさにまみれて生きています。こうした「自分と社会を意識する機会」というのは、大人達が意識して与えていかないと感じ取れず、また知識としても備えることができません。そういう意味では、親族も親もマメに「大人になれば社会で役に立つ一人の人間になろう」というような、目標を掲げて言葉で伝え続けてくれていました。


子供はわからないながらに、大人になれば社会の一員というのになるのだ、と思っていました。親が選挙に行くときにはついていきましたし、固定資産税や毎年納める税金の話もされました。「自分達が稼いだお金を、国が持っていく、取っていく」という誤解をする子もいるので、きちんと「何のために国が大人達からお金を集めていくのか」ということを、わかりやすい、現実にあった災害や救援、支援の例や、教育の例をあげて教えてくれました。



今、不登校をしているチビ達も、日本のどこかで災害があったり、日本だけでなく海外の人達にも、人が困っていることがあれば、日本という国は、大人の代表は、どうやって人を助けているのかということを教えてもらい学んでいます。そうすることで、次は自分が大人になって、この国を守る人の一員になって、仕事をし、お金を稼ぎ、税金をおさめるのだという社会の仕組みを知って行きます。そして人間関係が得意ではない一族が、なぜ地域社会の自治会に参加し、合わないはずの集団社会で町民としての役割は代々途絶えずにやっているのか、ということも話して聞かされます。大人の役割は、それ相応の理由があるのだという説明を受けます。



これらのある意味「しつけ」によって、日々を連続性を持たずに「目の前のことをとりあえずこなしていく」タイプの人間が多い私達には、この社会に生まれて、この集団社会というものがなぜあるのか、大人はどうして仕事をするのか、どうして無駄と思えるような自治会の役を真面目に親達が引き受けているのか、がだんだんとわかってくるのでした。大きい意味での、「社会で自立して生きていくことの意味、将来的な見通し」というものを与えられていたんだな、と思います。



発達障害の子供は、自分でたくさんの情報から必要な物をピックアップすることが苦手です。もしくは、何も選択せず、何も知らないまま、社会的には無知なまま大人になる事はとてもたやすいです。だからこそ、親になった時に、やはり自分の子供達には「この社会で生きていくことの意義」というものを教えていきたいと思いました。親や年長者がしてきたように、ニュースをひもとき、大きな日本という国の動きを教え、その国の一員であるのだということを意識させることは「閉じた世界で生きて生きがちな」私達の子供には必要不可欠なことではないかと思います。



最近の数々の災害、事件、事故のニュースを見ながら、「そこから知るべきこと」を教えてくれた曾祖父や祖父の過去の話を思い出したので書いてみました。





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