【閲覧注意】

※この記事は私の家族の記録として残します。

興味のない方、受け取りたくない方はスルーしてくださいね。

 

 

 

47年目の真実

 

 私の6歳年下の弟は1975年10月、埼玉県にある小さな医院で生まれました。私も子どもだったので、両親から聞いた話しか記憶にないのですが、生まれて間もない(おそらく1歳前)頃に発熱し、両親は生まれた医院に連れて行きました。

 その頃は、国の安全性が確認されないままに、解熱剤の注射がおしりや太ももにバンバン打たれていた時代、1975年は死亡・重度障害・歩行障害などの乳幼児が多発した年でした。そして弟もその注射を打たれ、ギャーッと泣いて真っ青になったまま意識を失ったのです。

 当時はインターネットもなく、親の同意書もない、両親は医者を信じて委ねることしかできませんでした。医療裁判は難しく、証拠もない、泣き寝入りだったのです。  その後、いとこが同じ医院で出産し両親がお見舞いに行くと、その医者は顔色を変えて慌てて逃げたようなので自覚はあるんですね。

 今でこそ障害年金が受給できますが、当時は、「国の役に立たない者に予算は使えない」と、補助金などもありませんでした。両親は金銭的にも精神的にも体力的にも、とても大変だったと思います。

 

 これは47年目にして私が解明できたことなのですが、弟は乳児メトヘモグロビン血症によって体内が酸欠状態になり、全身が真っ青になったのです。これを一般的にブルーベビー症と言います。1946年以来、北米およびヨーロッパにおいて約2,000例が報告(うち6~7%が死亡)されていますが、実際にはこの10倍は患者が発生していたと推測されているようです。

 その頃の日本ではそういった症例がないか、報告されていなかった、もしくは医者の勉強不足により医者もわからず、もっと大きな県内の病院を紹介されました。

 そこの院長はもう亡くなったようですが、息子たちのうち1人以外はみんな医者で、残りの1人はダ〇サー、後に離婚していますが、引退した平成の〇姫と結婚したことで、当時その病院もよくテレビに映っていました。

 そして院長は診断のつかない弟を、「あと2週間ほどの命だし、研究材料として東○大〇病院に寄付してくれ」というような酷い言葉を両親に放ち、怒った父は無理やり弟を退院させました。

 その後、千葉県の国立病院に行きますが、そこでも、脳腫瘍・水頭症…とはっきりした診断がつかないまま、意味のない手術で脳を2回も3回も切られ、しだいに表情もなくなり、手で物をつかむこともなくなっていきました(その後の調べで、水頭症は不必要な脳の手術や失敗により、発症することがわかっています)。

 そして今度はまた別の病院で「髄膜炎」との診断を受け、重度心身障害児として身障者手帳を手にすることになりました。

 

 その後も何度も体調を崩しては入退院を繰り返し、やっと落ち着いた頃、今度は母の体調が悪くなり、2ヶ所の町医者に夏風邪だと言われ薬を飲みました。しかし、いっこうによくならず隣町の病院に行くと、すぐに大学病院を紹介され、癌が全身に転移している末期、腹水を抜くくらいでもう手の施しようがない状態でした。多くのストレスを抱えていた母は、私が17歳、弟が11歳のときに、42歳という若さで亡くなりました。 

 私が中学3年生のときから地域のボランティア活動をしており、福祉事務所、社会福祉協議会の方が、すぐに弟が施設に入れるよう手配を進めていてくれました。(「私が高校を辞めて家で弟の面倒を見る」と言うと、父は「私には私の人生がある」と言い泣いていました)そして、県内の大学病院併設の施設に入院したのです。

 それからは父との2人の生活が始まりました。1人で私と弟を育てていかなくてはならない重圧と仕事のストレス、親戚との人間関係とで、酒を飲んでは私を怒りのはけ口にしました。モラルハラスメントです。

 

 そんな父も6年前、71歳で肺腺癌のため亡くなりました。毎年、会社の健康診断を受けていましたが、倒れたときにはもうステージ4でした。

 思い通りにならないと機嫌が悪くなり凄んでくる、ドラマの中の質の悪いヤクザのような主治医で、その頃すでに近藤誠先生の「医者に殺されない47の心得」を拝読していた私は、最期は絶対に家に帰りたいと父は言うだろうと思い、「抗がん剤はやめよう。訪問医療をやっている病院に変えよう」と言い、本も数冊読ませましたが、父は悩んだあげく、「もっと生きたい。孫たちの成長を見たい」という望みから、抗がん剤治療を受け入れてしまいました。副作用に苦しみ、元々細かった父は38㎏まで体重が落ちました。

 

 もうそんなに長くないのかな、という頃、研修医に胸腔ドレナージをやらせたかった主治医は、父を入院させました。しかし、父が「やらない」と言うと、「もう自宅に帰んないですよねー。言うことが聞けないならここには置いておけない。考えなくてはいけない」と声を荒げ、その数日後、父は消されました。亡くなるまで点滴をされていたので浮腫みは酷く、とても苦しかったようです。父が息を引き取った後の医者は急に優しくなり、満面の笑みでした。

 医者は殺〇罪に問われることなく人を殺したり、重度障害にしたりできるのだな、と私はつくづく思いました。

 その医者の胸腔ドレナージは、麻酔もなしにメスを入れ、太い管をぐいぐいと押し込み、そのままテープで止めるので、ものすごい痛みで、普段は薬をほとんど飲まない父でも、最初の入院中は毎日、痛み止めをもらっていました。最期は穏やかに家で家族に囲まれて逝きたかったのだと思います。

 

 考えると、おかしな点は他にもありました。抗がん剤をやらないと言う父に、ものすごい剣幕で凄んできたり、父が熱を出すと、総合感冒薬が出ているにもかかわらず、解熱剤、咳止め、痰の薬、鼻水の薬などがごっそりと出て、良心的な薬剤師は首をかしげるほどでした。千葉県内の大きな市立病院、それなりに上のポストにいるため、売り上げはとても大事なんでしょうね。

 ちなみに、がん治療をすると1人当たり3,000万円儲かるそうです。そのため、国も病院も製薬会社も必死なのです。

 医者は噓もつくし、大罪も犯します。気づかずにやってしまう医者、知っていながら金儲けのためにやる医者、この世界の9割の医者にとって医療はビジネスなのです。

 

 父の他界後、弟の保護者・成年後見人・身元引受人となった私に試練がやってきたのはコ〇ナでした。そして、弟の接種券が市役所から届いたのです。

 通常は、何年も何十年もかかって承認され、治験を繰り返し世に出るワク〇ンが、コ〇ナワク〇ンはわずか半年ほどで承認されたのです。同意書へのサインを迷う私に、センター長や医者は「なぜ迷うんですか?」と聞きました。私は、「大規模な治験をしているようなもんじゃないですか」と言い、接種を見送ってもらいました。

 その背景には、弟が注射で重度心身障害者になったこともありますが、子宮頸がんワク〇ンがありました。接種が始まったときに娘たちにも接種券がきて、それを打つ娘の同級生もクリニックで見かけました。看護師に説明も聞きました。看護師をしている知人からも、「あれは初体験をする前に絶対打った方がいいよ」と言われました。しかし、「あんなデータのないワク〇ンどうなの?」と様子を見ていると、案の定、被害者続出で中止になったのです。

 

 お医者さんが言うから…

 パートナーが言うから…

 国が安全だと言うから…

 世間がみんなしているから…

ではなく、たくさん調べること、勉強すること、自分の頭で考えること、自分の感覚を信じることです。 

 それからも私は学び続け、この世界の真実にたくさん気づき、体に毒物を入れないことが一番大切なのだと考えました。

 施設側から、「インフルエンザワク〇ンを接種していない方は面会できません」という手紙がきて、私がアレルギーで打てないため、娘たちに打ってもらったことをものすごく後悔しました。ワク〇ンは効果がないだけでなく、危険で有害だと知ったのです。

 

 医者に、「あと2週間の命…」と言われた弟は、人工呼吸器、胃ろうという姿になりながらも、今も一生懸命に生きています。昔より表情も見られるようになりました。

「もう、いつどうなってもおかしくない。急変もあり得る」と言われており、いつ呼び出しがくるかわからない状況は、気が休まることがありません。

「コ〇ナワク〇ンを打っていないのはおたくだけ」と言う医者や看護師からの圧力もありました。私は何の宗教信者でもありませんが、反ワク・陰謀論者扱いされたこともありました。私も家族も打っていないと知ると、そそくさと離れた人もいました。救急車が鳴りやまず、大量の死亡者や病人が出て、国民の8割が打ってしまった今、やっと真実が明らかになってきたのです。

 私の付き合いの長い友人や知人でさえ、危険性を訴えても適当に話を聞き流し、3回、4回、5回と接種してしまい、やっと話を聞くようになった今、慌てて解毒、浄化をしています。

 

 弟のことを調べる中で、「その注射を打った者は現在40代以上になっており、変な歩き方や酷い腰痛などに悩まされている」とありました。まさに今の私の状況だと思いました。私は先天性股関節脱臼をしていて、両親が遠くの治療所まで通ってくれたのですが、歩き方が治らなかったのです。いとこ、友人、知人、友人の子どもは、先天性股関節脱臼をしていてもみんな治っていて、きれいな歩き方をしています。どうして私だけ治らないのか不思議でした。そして、私も弟と同じ医院で生まれていて、小さい頃、風邪をひいて発熱すると、よくおしりに注射されていたのを思い出しました。薬害だったのです。

 父が、「あそこの注射をすると、一発で治っちゃうんだよな」とよく話していました。すぐに熱が下がる、症状が消える=腕のいい医者、と勘違いしている人は、昔も今もけっこういます。しかし、薬の強さで一時的に症状を抑え込んでいるだけなのです。

 例えば、病院で風邪薬が5日分出たなら、5日で治るということではなく、「5日間かけてゆっくり養生しましょう」ということなのです。

 

 解熱剤の怖さについては、一般の人はもちろん、医者や看護師でも知らない人が多すぎます。熱は自己免疫がウイルスと戦っている状態であり、無理に下げれば、また上がったときに増殖し悪さします。脳炎・脳症などが起こるのはこのためです。病気が悪さするのではなく、解熱剤が悪さをするのです。

 熱が下がったのは治ったわけではなく、一時的に下がっただけです。どうしてもつらくて水分補給などさえできないときに、少しの間ラクにするだけです。賢いお母さんならきっと知っているはずです。

 

 社会人一年目で幼稚園に就職するとき、レントゲンを撮ると、「股関節はきれいに治っている。第4、第5腰椎の間がちょっと狭いから、腰は少し悪いかも」と言われました。幼稚園教諭の免許状や保育士の資格、車の大型免許や二輪免許も、条件なく普通に取得してきましたが、年を重ねるにつれ、やはりいろいろな不具合が出てきました。

 コ〇ナワク〇ンについても、今は何ともなくても、今後、何らかの病気が表面化する人、持病が悪化する人、突然死する人、変な事故を起こす人、などがますます増えてくるでしょう。また、未接種者でもシェディングの影響で苦しむ人が増えそうです。

 

 「準備は整った…」 コ〇ナ騒ぎは序章で、これからが本編のようです。

よく見て考えれば、もう、危険なものも食品にたくさん混ぜ込まれています。無添加・〇〇不使用などの表示も規制強化され、安全性が見えない化されていきます。(ただ、安心・安全・無添加などと謳っていても、成分表をよく見ると一部の添加物以外はどっさり使っていたり、決して安心・安全ではなかったりするものもあります)

 日本国憲法第25条にある「健康で文化的な最低限度の生活」さえ危うくなるかもしれません。大きな政治圧力や支配があるため、それだけでは済まないかもしれませんが、日本人の意識を、政治を、医療を、教育を、食を… 変えなくてはなりません(そんなことを言っていたら私も消されるでしょうか)。

 子どもたちの未来が、キラキラと輝く笑顔で溢れるよう、私たちに何ができるでしょうか・・・? 

まずは、一人ひとりが「真実」に目覚め、気づくことからではないでしょうか。