監督・脚本 ドット・フィリップス 出演ホアキン・フェニックス ロバート・デニーロ

アカデミー賞主演男優賞、作曲賞受賞

「ジョーカーは笑いの止まらない病気です。暴力とともに、その高笑いがスクリーンいっぱいに広がり、暴力が暴動になってゆく物語」

 アメリカの犯罪映画のエネルギーはすごいです。画面全体に主人公ジョーカー役のホアキン・フェニックスの高笑いがこれでもかこれでもかと言う位に聞こえてきてうるさいですし、騒々しいです。映画「グラディエーター」の第17代ローマ皇帝を演じた人物ですが、ラッセル・クロウを目の敵にするあのローマ皇帝の演技がとても印象的でした。

 この映画のホアキン・フェニックスの演技はすさまじく、鬼気迫るものがあります。ダンスもうまいです。石段を踊りながら降りるシーンは美しいです。体の曲線もとても良いです。年はとりましたが、顔の凄みが誰にも真似できないものです。進歩していてびっくりします。芸熱心な人なのでしょう。

 このジョーカーという人物を演じるのは並大抵ではありません。精神病のようにも描かれていますが、それだけではないのです。心に闇があるというか、人間への恨み、社会への恨み、自分の人生への恨み、親への恨み、恨みで凝り固まっているのではないでしょうか。その人物が高笑いをします。その笑いに理由はありません。いつも高笑いするのです。そんな人が隣にいたら、気持ち悪いでしょう。理由もなく隣で大声で笑う。遭遇した人は腹もたつでしょう。無理やり、笑いを止めて、なぜ笑うんだと理由を聞きたくなるでしょう。集団になれば、その笑いに暴力も振るうでしょう。ジョーカーはそんな虐げられた人生を送ってきたのです。だから、あながち精神病では割り切れません。そんな人生だから精神病になって、笑いが止まらないかもしれないのです。

 そんな積もりに積もった恨みを抱えたジョーカーは劇場で笑いをとる芸人です。だからピエロの顔をして、手品をやり、トークでお客さんを笑わせる。受けていたら人生も変わったでしょうが、受けてきませんでした。貧乏です。アメリカは貧富の差の激しい社会です。この主人公でなくとも、人生の過去の恨みつらみを持った人間は町にあふれています。しかも、アメリカは自己責任の社会で、自分の行動は自分で決めるし、暴動もよく起こります。メディアも一旦暴動が起これば、勢いづいて報道します。ますます暴動は暴動を呼び、街は騒然となって、警察もお手上げになります。そういう激しいエネルギー、暴動のエネルギーの表現は素晴らしいものがあります。

 映画は予想もつかない展開です。狂気の映画です。暴力の映画です。暴力はどこから起こり、どこへ向かうのでしょうか、どうやって終息するのでしょうか。

 虐げられてきた者、ずっと貧乏で不本意な人生を送ってきた者が暴動を起こすのです。一人では無理でも、集団になれば多少のうっぷん晴らしをしてもよいと考えるから、暴動になるのです。対象は金持ち、富と名声を得た者です。そんなことがジョーカーは起こるとは思っていませんが、ジョーカーの行動は刺激的でした。

 暴力の連鎖のエネルギー、ジョーカーの「もうどうにでもなれ」と言うエネルギー、そこにジョーカーの高笑いが象徴的に響くのです。警察は何をやっているのだろうと思いますが、警察とジョーカーの戦いではないのです。ジョーカーの自分自身の人生との戦いなのです。

 そんなに虐げられてきた人間が社会に復讐しようとすれば、多少の同情をするかもしれませんが、そういうことを描いた映画ではないのです。ジョーカーはとんでもなく恨みを大きく膨らませて、その暴発を刺激的に描いている映画です。そのエネルギーが笑いで表現されているように感じてしまうのです。

 ホアキン・フェニックスの演技と顔は不気味です。ほとばしる言葉も不気味です。でも、不気味さは笑いでごまかし、恨みはダンスの中に消えていくのです。外目からは恨みは一切見えないのです。我々の周りにもきっとジョーカーのような人間はいます。暴発しないだけです。暴発するには勇気とチャンスと道具がいるのだと思います。ジョーカーは「どうにでもなれ」と言うあきらめが勇気に変わり、チャンスと道具が与えられてしまったのです。