監督 大友啓史 原作 巴亮介  出演 小栗旬 尾野真千子 
「裁判員裁判で殺人事件の犯人とされた人間は自殺したが、冤罪であった。真犯人は自分の殺人を『作品』と呼んでその裁判員裁判の裁判員を次々と猟奇的に殺害していく」

 「ミュージアム」とは絵画や彫刻の展示館です。「猟奇的な殺人事件」が好きな人向けの映画です。作品としての完成度はかなり高く原作が優れているものと思われます。

 犯人は殺人自体にも興味があるのでしょうが、主にその死体の作り方に芸術性を感じ、自分の殺した人物を作品として芸術性高く仕上げます。つまり画家や彫刻家が、あるいは建築家が絵や彫刻や家を作品として完成度を高くしたい、作品として高度なものでありたいと願って製作するのと同様に、この猟奇殺人の犯人は被害者選定から殺害方法、そして死体が発見された時の死体の有様に異常な興味と執着があります。血を見ると脳貧血を起こす人がいるのとは反対に血を何とも思わない、血を見て更に興奮する、そういう人間でなければできない犯罪です。

 死体発見をした人が、いったい何と言うことをするのだろう、どうしたらこんなことができるのだろう、と言う位に死体は損壊されています。あるいは装飾されているのです。そんなことを考えて殺人をする人は現実世界にはいません。現実世界では、勢い余って人を殺してしまった、どうしよう、この死体をどうしようと考えても大きくて処分できないのです。だから死体はバラバラにされたり、焼かれたりしてしまうのです。

 この犯人は快楽殺人犯なのです。犯人にはどうしようもない狂気が宿っています。

 どのように被害者を選定するのかと言うと、最初はきっと偶然で、その人を被害者にする必然性はなかったのです。死体の処理の仕方を考えて、世間の人が「あっ」という劇場型の方法をとりたいのでした。不特定の人を対象にした殺人自体がもう狂気であるのに、犯人はその死体の扱い方にさらに狂気を示します。単純に殺害して道に放り出す訳ではありません。殺された方はたまったものではありません。

 ある日、幼女が透明の大きな四角い長方形の引っ越しに使うような半透明な箱に樹脂をたくさん詰められた中で発見されました。「幼女樹脂詰め殺人事件」として犯人が捕まり、栽培員裁判で死刑が宣告されました。犯人は刑務所内で精神疾患が悪化し自殺してしまいます。

 映画はその犯人の自殺の3年後から始まります。

 まずとんでもない殺され方をした死体が続けて二つ発見されます。死体損壊などというものではありません。殺された人の苦しみがよくわかる、生きたままでひどい殺され方をしていました。その死体を見て吐き続けた刑事が有力な情報を捜査本部にもたらします。その二つの遺体は「幼児樹脂詰め殺人事件」裁判で裁判員として選定された9人のうちの二人であると言うのです。犯人の目的は「幼児樹脂詰め殺人事件」で自殺した犯人の関係者の復讐と捜査本部は考えました。当然の成り行きです。

 捜査本部の中に沢村刑事と言う刑事の仕事に使命感を感じ、家にも寝に帰るだけくらいの熱血刑事がいました。彼には若い美しい奥さん・遥と幼い幼稚園の息子の将太がいました。沢村は捜査本部での報告、被害者は「幼児樹脂詰め殺人事件」の裁判員裁判の裁判員であると聞き血が凍りました。若い奥さんはまさにその裁判の裁判員だったのです。

 そして、遥と将太はもうどこにもいなくなっていました。

 この連続猟奇殺人事件の犯人は不気味なカエルのお面を被って登場します。しかもいつも雨の日にレインコートを顔が見えない位に包むように頭からかけて沢村刑事を遠くから観察しています。このカエルのお面、それはお化けガエルの仮面です。それを見たら異様ですから、誰もが逃げ出します。

 沢村刑事は犯人を殺しかねません。単独行動をしたら必ず犯人を殺すでしょう。犯人と沢村と警察の捜査が入り乱れますが、この作品はアイデアが素晴らしく、それでいて事件すべてのつながりに破綻がなく辻褄があいます。おかしなところはありません。完璧な組み立てでできています。撮影もシャープで非常にうまいです。計画的な猟奇殺人ですから、犯人の準備も万端整っています。

 現実には座間の9人殺害事件や、大久保清事件など大量殺人事件は存在しますが、この映画のような劇場型犯罪はありません。また、ないことを祈ります。