皆さまありがとう存じます、きぼうです。

 

今回は、私がまだ台湾の頃 仕上げた記事を

 

手直し 再投稿させて下さいね。

 

 

さて、2・2・8??

 

2・26事件じゃなくって?

 

そちらは昭和11年、帝都・東京にて

 

「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンとした

 

陸軍将校達のクーデター未遂事件です。

 

 

このショッキングなお写真は!?

 

 

台湾総統でもあった蒋介石の像ですが、

 

この様に激しい罵(ののし)りの言葉と共に

 

赤スプレーで落書きされています。

 

ほかには首を斬り落とされている銅像も。

 

単純ないたずらというよりも 

 

怨恨がぶちまけられた強烈さがありませんか?

 

なぜでしょう?

 

 

50年間日本統治下にあった台湾

 

今なお 和食、日本製品 、サブカルチャー、

 

 現地の人々に親しまれてもいますが

 

我が国とは異なっているところがあり、

 

それは

 

支那人に直接支配されたことがある、という

 

過去です。

 

チベット、内モンゴル、

 

東トルクメニスタン(ウイグル)

 

愛すべき“かつての“隣国の 惨状からも

 

支那流儀の恐ろしさをしっかりと学び、

 

私たち日本人が

 

より一層の国防意識を身につける事は

 

早急の課題です。

 


ニニ八事件は

 

発生してから74年目になります。

 

台湾ではこの後

 

1949年から1987年

 

実に38年もの戒厳令

 

(これは現代においても未だに世界最長)が

 

発令された時期がありました。

 

戒厳とは、軍部にとって

 

不審者と見なされれば何の釈明も許されず

 

連行、時には死に至るまで

 

拷問にかけられたりした 非常事態です。

 

 

支那大陸からの 外来政権 国民党時代は

 

政権が変わっても

 

二二八事件はタブー視、 

 

沈黙を貫いて来ましたが

 

1995年李登輝総統の時代になってから、

 

総統自ら政府を代表して

 

二二八事件で犠牲になった方々、

 

そしてその御遺族

 

さらに台湾人全てへ向けて

 

初めての公式謝罪を行い、

 

(李総統御自身も日本でエリート教育を

 

受けた者として 

 

同じ迫害を受けられた)

 

並びに保障条例、

 

記念基金会、記念館の設立、

 

国家公文書の公開にも踏み切りました。

 

立法院(日本の国会に相当)でも

 

この2月28日を『平和記念日』と改め、

 

現在では国民の休日となっています。

 

 

よくまとめられている動画を見つけ

 

ご紹介させて頂きたいのですが、

 

3分間でも

 

お耳慣れない言葉を聞くのは苦痛、

 

先に字幕の部分を

 

日本語に訳しましたので

 

参考になさっていただけたら、と思います。

 

そして、大切なキーワードがあるので、

 

少しお気に留められて下さいね。

 

本省人(ほんしょうじん)=

 

300年位前、大陸南部福建省からの移民と

台湾原住民との混血子孫

 

 

外省人(がいしょうじん)=

 

大東亜戦争後、国民党と一緒に大陸から

逃げ延びてきた者達とその家族  

 

・お時間のない方は

黒色のみで動画の内容をご理解頂けます。

                  

(青色は動画和訳の補足資料として

用いました。)

 

 日本時代の過去記事は、こちら

 

「1945年8月15日、日本の降伏により

 

第二次世界大戦が終結しましたが、

 

それは同時台湾で50年もの日本統治が

 

終結した事も意味しました。

 

当時の台湾本省人達は

 

新しい国民党政府を

 

喝采を持って迎え入れましたが

 

国民党政府は

 

汚職と賄賂にまみれていることを

 

後になって思い知らされるばかりで

 

また国民党軍に至っては

 

著しい軍規の乱れにより、

 

無銭飲食、飲酒時の乱痴気騒ぎ、

 

そして民家に押し入っては

 

婦女強姦や窃盗まで朝飯前の有り様。

 

日本からの解放を意味する台湾『光復』後

 

数ヶ月、前代未聞の政治汚職が続発、

 

物価は高騰、工場の操業回復には

 

めどが立たず、

 

かつての日本統治下であった

 

満州、朝鮮、南洋諸島で働いていた、

 

あるいは全き帝國軍人であった

 

 帰台の青壮年層も

 

生活の糧を失います。

 

物資の投機的買い占めによって

 

暴利を貪る商人、貿易局や専売局は

 

物資を横流し、汚職がはびこり、

 

軍や警察等法を守るべき人間が規律を破り、

 

暴力を濫用する事件が頻発します。

 

接収機関の混乱や私腹を肥やす行いに対し、

 

日本式の高等教育を修めた

 

台湾社会のエリート達

 

例えば教師、医師、議員、新聞社、裁判官、

 

弁護士など)は正義を尊び、不正に対し

 

直言を恐れないので、国民党政府、

 

軍部にとってはまさに厄介な存在、

 

その後の粛清の伏線となります。

 

何よりも大陸からやってきた彼らには、

 

教養のあるなしに関わらず日本語を

 

上手く使いこなす本省人が

 

未だ日本にかしずいているように見え

 

異様極まりなく

 

逆に現地の者から見れば

 

彼ら何語を喋ってるかもわからないので

 

避けていました。

 

 

1947年2月27日

 

台北市天馬茶房(カフェ)の前で、

 

貧しい生活の為たばこを密売していた

 

未亡人がたばこ専売局の取り締まり員に

 

見つかり、わずかな所持金を没収のみならず

 

拳銃の柄で殴打されてしまいました。

 

その一部始終を見守っていた人々は

 

取り締まり員の横暴ぶりに我慢できなくなり、

 

駆けつけた警察とも乱闘する中、

 

警察は全く関係のない市民ひとりを

 

撃ち殺してしまいます。

 

この事が発端で

 

本省人民衆の怒りは前代未聞の最高潮に達し、

 

翌日2月28日の朝、

 

人々は各々の仕事を臨時休業にして

 

街へ繰り出し

 

騒ぎの元となった取り締まり員の処罰を叫び、

 

午後一時頃

 

一群の民衆が行政長官公署

 

(当時台湾の行政の中枢)で陳情を行うと、

 

衛兵が機関銃を無差別掃射、

 

死亡者も出たので台北中がパニック状態に。

 

民衆がラジオ局を通じて反抗を呼びかけると、

 

情況は収拾がつかなくなります。

 

蜂起呼びかけのメッセージは徐々に拡大、

 

参加者は 腕っぷしの強い者や

 

復員した元台湾籍日本兵が

 

中心となりますが、

 

諜報機関が背後で扇動していたとも

 

いわれています。

 

本省人民衆の激情は納まるところを知らず、

 

何の関係もない一般の外省人を

 

見つけ捕まえては暴行、

 

加えて本省人であっても

 

身元の怪しげな者は袋叩きにしてしまう始末。

 

3月に入ると抗議の騒乱は

 

台湾全土に飛び火拡大、

 

各地で国民党軍と衝突を繰り返しました。

 

動乱の最中、台湾社会のエリート達らは

 

事態の収拾を図る為、

 

「二二八事件処理委員会」を設立、

 

民間と当局間交渉の代表機関となります。

 

(各地でもそれに応じ分会を設置)

 

本省人民衆を代表して軍部との

 

談判も行いました。

 

しかし、台湾行政官陳 儀(チン  ギ)は

 

民衆組織の政治的要求を

 

受け入れるそぶりを見せながら、、、

 

秘密裏に大陸の蒋介石に

 

援軍を要請してしまうのです。

 

3月8日には北部・基隆(ジーロン)港に

7000名の兵、

 

南部・高雄(ガオション)には

3000名の兵が上陸。

 

本省人を見つけたなら武力で

 

即座に恐ろしい大量殺戮、

 

掠奪が繰り広げられました。

 

また陰で誰かが糸を引いていると考えた

 

軍政首長もおり、高雄要塞司令の

 

彭孟緝(ポン モンイ)は武力を頼みに

 

勝手に市民を攻撃します。

 

この無差別鎮圧期間にも

 

おびただしい数の人々が

 

犠牲となっただけでなく、

 

「二二八事件処理委員会」に関わった

 

台湾エリートたちも

 

公正な判決を仰ぐ事も出来ず

 

銃殺処刑されてしまったのです。

 

加えてそれに加わっていない台湾エリート達も

 

逮捕、失踪、

 

宜蘭(イーラン)、台南、

 

嘉義(ジャーイー)では

 

公開処刑まで行われます。

 

その中には台湾芸術界の宝、著名洋画家の

 

陳澄波(チェンチェンボー)画伯も

 

中部・嘉義(ジャーイー)駅前にて

 

公開処刑されてしまったおひとりです。」

                                       (和訳はここまで)

 

  

失礼ながら、

 

現在も平和ボケの我が国ニッポンにおいては、

 

「公開処刑」、「拷問」、

「無差別殺戮」、などと耳にしても

 

「北朝鮮かどこか遠くの事でしょう?」 と、

 

ピンと来ない方もいらっしゃると思います。

 

畏(かしこ)くも昭和の天皇陛下に

 

あらせられましては、

 

まだ摂政の宮、皇太子殿下の

 

大正12年四月の折には

 

約二週間近くもこの南の島・台湾の地を

 

行啓

(ぎょうけい、ご訪問)遊ばされました。

 

ちなみに私は最南部屏東(ピントン)県、

 

高雄(ガオション)県にも

 

以前住んでいた事がありますが、

 

四月といえば

 

あちらはもう炎天下並みの気温で、

 

ムウッとした熱風が吹き

 

椰子やビンランの樹々が揺れる時、

 

呼吸をするのもだるくなるくらいです。

 

それでも行啓のお写真におかれる

 

皇太子殿下は

 

開襟シャツにサンダルならぬ、

 

常に軍帽、詰襟軍服に白手袋ご着用で、

 

親しくこの地の国民の前に

 

(中には裸足の民衆達)

 

お出まし遊ばされの由(よし)、

 

『国体 (象徴) とは、

 

これほどまで

 

厳格に御権威お保ち遊ばされるのか!』

 

万感の思いになりました。

 

それからたった20数年後、

 

台湾全土が真っ赤な血の海に染められた

 

残酷な事実を、

 

もし敗戦後の

 

天皇陛下もご存知で遊ばされたならば、

 

如何様なお気持ちであらせられたのだろうか、

 

しばらく悲しくてなりませんでした。

 

 

再び二二八事件関係の中国語資料を

 

もう少しだけ、、、お伝えさせてください。

 

実際に下記の様な形で、

 

1947年(昭和22年)3月当時の台湾では

 

私たち日本人と日本政府が知らないうちに、

 

 (知っていたとしても助けられないまま)

 

大和ごころを併せ持つ数多くの

 

”台湾系日本人”が虐殺されていたのです。

 

現に処刑のため運ばれていくトラック上で

 

日本の軍歌を歌っていた若者達も

 

おられたそうですから

 

本当に私たちの

 

兄、父、祖父の如くではありませんか!

 

<閲覧注意>
又如(一)基隆車隊用鐵絲穿過人民足踝,每三人或五人為一組捆縛一起,單人則裝上麻袋拋入海中,基隆海面不斷浮現屍首。

 

例えば、北部・基隆部隊は

足首をはりがねでくくり付けられた人々を

再び3人から5人づつ一組にして縛り麻袋に

入れて海の中に放り込んだので

基隆の海面には水死体が絶えず浮いていた。

 

 

(二)高雄軍隊對集會中台灣人千餘民眾

用機槍掃射,全部死亡。

 

高雄部隊は千人以上の集会中の民衆に

機関銃掃射を浴びせ全員が死亡。

 

 

(三)台北行動隊用機槍及坦克彈殺害

台灣人平民。

圓山有數百名手無寸鐵的台灣人中學生

被集體射殺,屍橫遍野,血流成河!

 

台北機動部隊は機関銃掃射とタンク弾

(戦車からの発砲?)で台湾人民衆を

殺害した。

圓山(台北市)では数百人にも及ぶ丸腰

(武器を持っていない)の十代学生を集めて

射殺、おびただしい数の遺体は

その場に横たわり、血の海と化した。

     

 

(四)基隆軍隊割去台灣人青年學生二十人之耳鼻及生殖器,然後用刺刀戳死。

 

基隆部隊は20人ほどの台湾人青年学生の耳、鼻、生殖器をそぎ落とし

その後刃物で刺し殺した。

     

 

(五)台北將所捕四、五十名台灣人由三層樓上推下跌成肉餅,未死者再補以刺刀。

 

台北では捕らえられた40人から50人ほどの台湾人が建物の三階から突き落とされ

身体が砕け散るほどであった。

完全に死んでいない者はまた刺し殺された。

 

 

(六)高雄將台灣人釘在樹上,任其活活餓死。

 

高雄ではある台湾人が生きたまま

樹の上に吊り上げられ餓死した。

 

                     (参考資料 

228事件的元凶是蔣介石嗎? 台灣控)

 

 

訳すだけでもいたたまれず

 

ただただ合掌、

 

こういった殺戮例はまだまだありますが、

 

二二八事件に引き続いた大陸での国共内戦、

 

戒厳令体制により、

 

事件は隠蔽され目撃者、

 

被害者家族も口を閉ざしてきました。

 

政府は「暴動」、「共産思想宣伝」といった

 

理由によって、事件の参加者を暴民と位置づけ

 

被害者家族は政府諜報機関の監視下、

 

社会の冷たい視線を受けながら日々を

 

送ってきました。

 

現在に至るまで、

 

二二八事件による台湾人死亡者の数は

 

明らかになっていません。

 

当時の海外メディアの推計では

 

五千人から一万人、

 

また人口学による計算から、

 

二万人に達すると考える研究者もいます。

 

 

皆さま、いかかですか?

 

台湾へチベット、内モンゴル、ウイグルへも。

 

つまりこれが”支那人流儀なのです”。

 

ウーマンラッシュアワーの村本氏は

 

2017年、終戦記念日のツイッターにて

 

大文字で

「僕は国よりも自分のことが好きなので 

 

絶対に戦争が起きても行きません  

 

よろしく」と記していました。

 

でも結局

 

「わが国が攻められた時にどうするのか?」

 

に対し有効な反論が出来ていないです。


支那中共は

 

日本側の都合なんか考えてくれないですよ!

 

最後になりましたが

 

228事件の受難者のお一人、

 

陳澄波(チェンチェンボー)画伯の

 

素敵な作品をご紹介したいと思います。

 

戸籍を拝見しただけでも

 

どこの国にもなりきれない

 

台湾人の悲哀を感じます。

 

               

万世一系の皇室を戴く我が国、

日本。

 

祖国が存在するという事は

 

とてつもない奇跡なのです!!

 

 

1895年大清帝國・光緒21年 

2月2日出生 

(2月~6月)

 

       

台湾民主國 永清元年

(6月~10月)

 

大日本帝國 明治28年 (10月~)

昭和20年

 

1947年 中華民國36年    

 

満52歳没。 嘉義県人

 

彼も台湾からの初期留学生として

 

昭和4年(1929年)3月、

 

東京美術学校=現在の東京芸術大学を

 

御卒業なさっていらっしゃいます。

          

     

新樓 1934年 油彩 

 

カンヴァス

 

(澄み渡る空の下に

 

台湾風のお屋敷。

 

気持ちも晴れやかになりますね。)  

 

 

             

嘉義街中心 1941年 

 

油彩 カンヴァス

 

(看板に”ルービ生”の

 

文字が見えます、

 

なんとなくノスタルジック、懐古的)

 

一首献上

 

「南風(みなみかぜ)戻らぬ人の声届け 

 

なおも変わらぬ空の青さは」

 

                           慎んで深く、合掌、、、