チャーチルが首相就任後の最初の命令の一つが、「ロンドンにあるアメリカ大使館の暗号文書事務係を逮捕せよ」という指令だった。この事務係タイラー・ケントはロンドンからワシントンの国務省へ急送する極秘電報を扱っていた暗号係で、ルーズベルト大統領とチャーチル首相の間で交わされた秘密の通信を見るうちに、大統領がチャーチルと共謀してアメリカを参戦させようとしていると考え、アメリカ上院議会にこの危機を警告するため、交信記録をコピーし始めた。ケントはまた、イギリス情報局M15の監視下に置かれている、ロンドンの亡命ロシア人組織のメンバーにも接触し、極秘電報のコピーや大使館からルーズベルト向けの極秘レポートなどを手渡し、めぐり巡って、ヒトラーの側近ルドルフ・ヘスのもとまで届けられた。M15を通じて動かぬ証拠をつかんだチャーチルは、駐英アメリカ大使館のケネディ大使にこの事実を突きつけ、ケントの外交官特権を剥奪させ、1940年5月、この暗号係を逮捕した。しかしチャーチルの本当の狙いは、この暗号係だけでなく、彼のボス、ジョセフ・F・ケネディ大使に圧力をかけることであった。
35代大統領ジョン・F・ケネディの父親ジョセフ・ケネディは、長い間チャーチルにとって目の上の瘤であった。ケネディはヒトラーの大ファンになり、イギリスやアメリカに根を張る親ナチス派の間に広範なネットワークを築いていたから、と菅原出氏はその著書でいう。ケネディは1938年に駐英大使に任命されたが、ルーズベルト大統領は最初、「アイリッシュがアメリカを代表してイギリスに行くのか」と車椅子から転げ落ちそうになりながら笑ったという。しかし大統領は、アイルランド系カトリック教徒のケネディを任命することが、アイルランド系アメリカ人たちの伝統的な反英感情を和らげるのに役立つかもしれない、と思い直すようになった。ルーズベルトはすでにこの頃、イギリスを助けてヒトラーと対決することを想定し、ボストンやニューヨークなどの大都市にいるアイルランド系移民の反英感情を和らげる必要性を感じていた。しかしルーズベルトはすぐにこの任命を後悔することになった。
ロンドンについたケネディは、たちまち宥和派の雄ネヴィル・チェンバレン首相と親交を深めた。ケネディはその昔、密かに市場を操作して大儲けし、ウォール街の大暴落からも資産を倍に増やしたと言われる相場師で、かつて蔵相を務めたことのあるチェンバレンとは何かと話があった。市場を知り尽くしたこの二人は、戦争にはとてつもなく経済的負担がかかること、戦争が、「儲かる」ドイツとのビジネスを台無しにしてしまうことを心得ていた。そこでケネディ大使は、チェンバレン首相の対独宥和政策を心から支持していた。
ケネディはチェンバレンの宥和政策とミュンヘン協定を絶賛し、「この協定をドイツへのさらなる妥協のよい手本にするべきだ」と発言し、「米独間にも友好のための協定が必要だ」と考えて、ディルクセ駐英ドイツ大使のもとを訪れ、勝手に個人外交を展開した。そして「ルーズベルト大統領はユダヤ人の影響力のもとにある側近から誤った情報を受けているので、ドイツの状況を誤解している」と述べて、彼自身は「ヒトラーのもとで進められているドイツの経済的発展に喜んでいる」と語った。また「アメリカには非常に強い反ユダヤ主義的傾向が存在するので、アメリカ国民の大部分はドイツのユダヤ人に対する態度に理解している」と語り、アメリカがヒトラーの政策を指示しているとのメッセージを伝えていた。駐英アメリカ大使という要職に就いていた人物が、このような発言をしていたのが、1930年代後半の状況だった、と。
ケネディ大使はさらに、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まる直前に、あるアメリカの財界人と組んで、ナチス・ドイツと密約を結ぼうと画策したことがあった。この財界人とは、ゼネラル・モーターズ社の副社長ジェームス・ムーニーであった。同社はドイツでオペル社を傘下に収めていたが、そこでは軍用航空機の製造を手掛け、ドイツ空軍向け爆撃機用エンジンの製造をしていた。ムーニーはオペル社の取締役も務め、ナチスの大物たちとも親交が深かった。1939年4月ムーニーはドイツ経済省の友人を介して、ドイツ中央銀行のエミル・プール総裁と会談、ヒトラーが提案した「英米による金貨借款」計画について具体的に検討していた。ヒトラーは金貨借款により、英米との通常の貿易関係を回復する考えを持っていた。この提案をケネディ大使に伝える密使としてロンドンを訪れた。ケネディ大使はこの「英米金貨借款」案をいたく気に入り、すぐに総裁と会って詳細を話し合おうと返事した。結局、国務省が渡航を許さず、ドイツからゲーリングの右腕であるヴォールタートがロンドンに到着、秘密会談が実現した。内容はドイツが兵力制限と不可侵条約を遵守し、その見返りに英米から5~10億ドルの金貨借款を、BISにドイツの金準備として供与し、ドイツはそれを基盤に通貨と物価の正常化を図る、というものだった。ケネディ大使は必ずルーズベルト大統領を説得して見せると約束、大統領に電話を入れたが、ホワイトハウスは大統領に電話を取り次いでくれなかった。しかしムーニーがパリに戻った翌日、イギリスの新聞が、ドイツのスパイがロンドンにいると題して、ヴォールタートのロンドン訪問をカバーした記事を掲載した。このケネディとヴォーカルの秘密会談をマスコミの報道で知らされたアメリカ国務省は憤慨、英米金貨借款は幻に終わった。
イギリスの情報局M15は長期間にわたってケネディの行動を監視し、ドイツのスパイ暗号名「ドクター」の正体を調査し続けていた。無数の情報を分析した結果、ケネディの右腕エドワード・ムーアがスパイの可能性が一番高かった。チャーチルが親ナチス右翼団体のメンバーを根こそぎ逮捕しケントを逮捕した時、もう一人のターゲットはドクターだった。直後、一人の人物が大使館を去りアメリカに帰った。その人物はケネディの側近を25年間継続して務めてきたエドワード・ムーアだった。このように、当時の駐英アメリカ大使館には、ドイツのスパイが潜り込み、ナチスのスパイの巣窟のような様相を呈していた。これに対してチャーチルはM15を使い、この親ナチス・アメリカ大使に秘密の情報戦争を仕掛けていた。
チャーチル首相は国内の親ナチス派を蹴散らし、親ナチス派のケネディ大使やその配下のスパイ網にも果敢に攻撃を加えていった。チャーチルはナチスとの対決の道を選択したが、客観的に見てイギリスの形勢は不利だった。国力を比較すると、人口、労働人口は共にドイツの半分。1938年当時の総所得は時価換算でドイツ73億ポンド、イギリス52億ポンド、さらに軍事費はイギリスの5倍の予算を充てていた。加えてドイツはヒトラーが導入した大規模な公共事業と再軍備計画により、1936年末までにほとんど完全雇用が実現していたが、イギリスでは大戦勃発時の1939年9月にも130万人の失業者がいて、国力の差は一目瞭然だった。そこでイギリスが対独戦に勝利するためには、どうしてもアメリカの助けが必要だったが、アメリカのはその気がなかった。1940年中頃のアメリカに、イギリスを助けてヨーロッパの戦争に参戦しようと考えるアメリカ人は非常に少数だった。1920年代のアメリカには、第一次世界大戦時の反ドイツ・プロパガンダが行き過ぎだったとの反省から親ドイツ感情が戻って来ていたし、30年代には、議会の調査などで、アメリカの大企業やイギリスが自分たちの利益のためにアメリカを戦争に引き込んだとの議論が盛んになされたこともあり、アメリカ国民はヨーロッパの戦争に関わることに極端な警戒心を持つようになっていた。各種の世論調査でも、ヒトラーやナチスに対する嫌悪感や反発は見られたものの、ドイツ国民全体をナチスと同一のものと考えて敵対視するような兆候は見られなかった。ヒトラーに反感を抱き、イギリスに同情的な一部の国民の間でさえ、参戦するというのは極端で過激な意見だった。アメリカの公式な立場は中立で、1937年に改定された中立法では、いかなる交戦国に対しても武器の供給を禁止されており、交戦国への融資や信用貸付も禁止、さらに交戦国の船にアメリカ人が乗船することも禁じられていた。この中立法により、イギリスは兵器はおろか、金すらアメリカから借りることが出来なかった。
またアメリカには孤立主義や敗北主義が蔓延していた。とりわけ1940年6月にヒトラーがフランスを征服した後は、イギリスの敗北は時間の問題であるという見方が支配的になっており、敗者の側について参戦しよう、などと考えるアメリカ人はほとんどいなかった。さらにこの考えは、親ナチス派による巧妙なプロパガンダにより、さらに勢いを増していた。ナチスのスパイたちが、アメリカの世論をさらに孤立主義・中立主義の方向に引っ張ろうと暗躍し、親ナチス派の財界人たちもそれに協力した。
1940年5月、アメリカ商工会議所のジェームス・ケンパー会長は、今日のアメリカ経済が抱える最大の関心事は、外国の戦争に巻き込まれないことで、戦地にアメリカの若者を送り込むことに断固反対すると発言した。この発言は米独貿易委員会の会報に掲載されたが、この団体は中立主義の立場をアピールし続けた。団体役員の顔触れを見ると、IGファルベン社の役員イルクナー、GM副社長のムーニー、名誉会長はハンブルク・アメリカ汽船会社のアメリカ側代表メイヤーなど。この委員会は親ナチス派財界人の集まりで、表面的にはドイツとの輸出入業に携わるアメリカ財界人たちの懇談の場だったが、実際は親ナチスの宣伝組織として機能していた。
また「経済の平和」を旗印に掲げて1939年11月にパリで産声を上げた経済平和委員会も、アメリカの親ドイツ派財界人たちが中心となって作った組織、委員長にはIBM社のワトソン社長が就任し、副委員長の一人にロックフェラー財団傘下のチェース・ナショナル銀行のオルドリッジ頭取が就任した。IBMのパンチカード選別システムはユダヤ人をシステマティックに処分することに貢献、IBMにとってアメリカ市場に次いで二番目に重要な顧客で、ワトソン社長は、委員会を通じてドイツに対する経済的宥和を唱えた。経済平和委員会は、ドイツとの戦争を避けるために、しきりに平和のメッセージをアメリカ国民に流していた。
アメリカで活動したナチスの宣伝組織で、忘れてならない組織が」三つあった、と菅原氏。大西洋横断ニュース・サービス、ドイツ情報図書館とドイツ鉄道情報局の三つ。大西洋横断ニュース・サービスは、ドイツ外務省が考案し実際には宣伝省が運営した通信社で、アメリカではマンフレッド・ツァップ博士の指揮下に置かれ、アメリカ国内にあるドイツ大使館や領事館で収集された情報をもとに、ドイツのための宣伝を広めるのが使命だった。そして全米のドイツ領事館、ドイツ語新聞やアメリカの民間人などに幅広く情報を配信していた。この三つのプロパガンダ組織は、他の組織と連携し、ナチスの宣伝を広めた。
アメリカ第一委員会は、最も有名でパワフルな孤立主義者の組織であった。エール大学の二人の学生によって組織されたこの団体は、全国規模の大集会を組織し、アメリカをヨーロッパのごたごたに巻き込まれないよう、精力的に活動を行った。この看板として全国を遊説したのが、飛行家チャールズ・リンドバーグであった。大西洋横断無着陸飛行に成功し、一躍世界の英雄になったリンドバーグは、強硬な孤立主義者で、親ナチスでもあった。リンドバーグはドイツ空軍は世界一強いと信じて疑わないドイツ・ファンでもあった。ヨーロッパの戦争が激しさを増してくると、リンドバーグの演説も過激になり、アメリカの中立を守るためにルーズベルト政権に強烈な批判を加えていった。1941年9月の演説で「アメリカを戦争に引き込もうとしている勢力が三つある。それはイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権だ」と。リンドバーグのこうした発言はアメリカの世論形成にも大きな影響を与えた。
更に、数多くの反戦・平和団体までがナチスや親ナチス派企業によって密かに支援を受けていた。ある団体は、戦争反対のスローガンを高々と掲げて市民運動を展開し、女性や子供が戦争によって無残にも被害に遭う様子を写真入りのパンフレットにメッセージが記載されていた。運動員の多くは戦争を心から憎む誠実な市民だったに違いないが、しかし彼らの活動資金はIGファンベル社から出ていた。
1940年中頃までのアメリカは、とてもイギリスを助けて参戦できるような態勢にはなかった。中立法で法的に中立を守れなければならなかったし、何より孤立主義が蔓延していた。さらにそこ孤立主義的傾向は、ヒトラーのエージェントや親ナチス派財界による巧みな宣伝工作により、さらに強められていた。しかしアメリカからの援助なしには、イギリスは戦争に勝つことは出来ない。そこでチャーチルは、アメリカを戦争に引き込むために大掛かりな工作を行うことを決意した、と菅原出著「アメリカはなぜヒトラーを必要としたか」の佳境に入る。
35代大統領ジョン・F・ケネディの父親ジョセフ・ケネディは、長い間チャーチルにとって目の上の瘤であった。ケネディはヒトラーの大ファンになり、イギリスやアメリカに根を張る親ナチス派の間に広範なネットワークを築いていたから、と菅原出氏はその著書でいう。ケネディは1938年に駐英大使に任命されたが、ルーズベルト大統領は最初、「アイリッシュがアメリカを代表してイギリスに行くのか」と車椅子から転げ落ちそうになりながら笑ったという。しかし大統領は、アイルランド系カトリック教徒のケネディを任命することが、アイルランド系アメリカ人たちの伝統的な反英感情を和らげるのに役立つかもしれない、と思い直すようになった。ルーズベルトはすでにこの頃、イギリスを助けてヒトラーと対決することを想定し、ボストンやニューヨークなどの大都市にいるアイルランド系移民の反英感情を和らげる必要性を感じていた。しかしルーズベルトはすぐにこの任命を後悔することになった。
ロンドンについたケネディは、たちまち宥和派の雄ネヴィル・チェンバレン首相と親交を深めた。ケネディはその昔、密かに市場を操作して大儲けし、ウォール街の大暴落からも資産を倍に増やしたと言われる相場師で、かつて蔵相を務めたことのあるチェンバレンとは何かと話があった。市場を知り尽くしたこの二人は、戦争にはとてつもなく経済的負担がかかること、戦争が、「儲かる」ドイツとのビジネスを台無しにしてしまうことを心得ていた。そこでケネディ大使は、チェンバレン首相の対独宥和政策を心から支持していた。
ケネディはチェンバレンの宥和政策とミュンヘン協定を絶賛し、「この協定をドイツへのさらなる妥協のよい手本にするべきだ」と発言し、「米独間にも友好のための協定が必要だ」と考えて、ディルクセ駐英ドイツ大使のもとを訪れ、勝手に個人外交を展開した。そして「ルーズベルト大統領はユダヤ人の影響力のもとにある側近から誤った情報を受けているので、ドイツの状況を誤解している」と述べて、彼自身は「ヒトラーのもとで進められているドイツの経済的発展に喜んでいる」と語った。また「アメリカには非常に強い反ユダヤ主義的傾向が存在するので、アメリカ国民の大部分はドイツのユダヤ人に対する態度に理解している」と語り、アメリカがヒトラーの政策を指示しているとのメッセージを伝えていた。駐英アメリカ大使という要職に就いていた人物が、このような発言をしていたのが、1930年代後半の状況だった、と。
ケネディ大使はさらに、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まる直前に、あるアメリカの財界人と組んで、ナチス・ドイツと密約を結ぼうと画策したことがあった。この財界人とは、ゼネラル・モーターズ社の副社長ジェームス・ムーニーであった。同社はドイツでオペル社を傘下に収めていたが、そこでは軍用航空機の製造を手掛け、ドイツ空軍向け爆撃機用エンジンの製造をしていた。ムーニーはオペル社の取締役も務め、ナチスの大物たちとも親交が深かった。1939年4月ムーニーはドイツ経済省の友人を介して、ドイツ中央銀行のエミル・プール総裁と会談、ヒトラーが提案した「英米による金貨借款」計画について具体的に検討していた。ヒトラーは金貨借款により、英米との通常の貿易関係を回復する考えを持っていた。この提案をケネディ大使に伝える密使としてロンドンを訪れた。ケネディ大使はこの「英米金貨借款」案をいたく気に入り、すぐに総裁と会って詳細を話し合おうと返事した。結局、国務省が渡航を許さず、ドイツからゲーリングの右腕であるヴォールタートがロンドンに到着、秘密会談が実現した。内容はドイツが兵力制限と不可侵条約を遵守し、その見返りに英米から5~10億ドルの金貨借款を、BISにドイツの金準備として供与し、ドイツはそれを基盤に通貨と物価の正常化を図る、というものだった。ケネディ大使は必ずルーズベルト大統領を説得して見せると約束、大統領に電話を入れたが、ホワイトハウスは大統領に電話を取り次いでくれなかった。しかしムーニーがパリに戻った翌日、イギリスの新聞が、ドイツのスパイがロンドンにいると題して、ヴォールタートのロンドン訪問をカバーした記事を掲載した。このケネディとヴォーカルの秘密会談をマスコミの報道で知らされたアメリカ国務省は憤慨、英米金貨借款は幻に終わった。
イギリスの情報局M15は長期間にわたってケネディの行動を監視し、ドイツのスパイ暗号名「ドクター」の正体を調査し続けていた。無数の情報を分析した結果、ケネディの右腕エドワード・ムーアがスパイの可能性が一番高かった。チャーチルが親ナチス右翼団体のメンバーを根こそぎ逮捕しケントを逮捕した時、もう一人のターゲットはドクターだった。直後、一人の人物が大使館を去りアメリカに帰った。その人物はケネディの側近を25年間継続して務めてきたエドワード・ムーアだった。このように、当時の駐英アメリカ大使館には、ドイツのスパイが潜り込み、ナチスのスパイの巣窟のような様相を呈していた。これに対してチャーチルはM15を使い、この親ナチス・アメリカ大使に秘密の情報戦争を仕掛けていた。
チャーチル首相は国内の親ナチス派を蹴散らし、親ナチス派のケネディ大使やその配下のスパイ網にも果敢に攻撃を加えていった。チャーチルはナチスとの対決の道を選択したが、客観的に見てイギリスの形勢は不利だった。国力を比較すると、人口、労働人口は共にドイツの半分。1938年当時の総所得は時価換算でドイツ73億ポンド、イギリス52億ポンド、さらに軍事費はイギリスの5倍の予算を充てていた。加えてドイツはヒトラーが導入した大規模な公共事業と再軍備計画により、1936年末までにほとんど完全雇用が実現していたが、イギリスでは大戦勃発時の1939年9月にも130万人の失業者がいて、国力の差は一目瞭然だった。そこでイギリスが対独戦に勝利するためには、どうしてもアメリカの助けが必要だったが、アメリカのはその気がなかった。1940年中頃のアメリカに、イギリスを助けてヨーロッパの戦争に参戦しようと考えるアメリカ人は非常に少数だった。1920年代のアメリカには、第一次世界大戦時の反ドイツ・プロパガンダが行き過ぎだったとの反省から親ドイツ感情が戻って来ていたし、30年代には、議会の調査などで、アメリカの大企業やイギリスが自分たちの利益のためにアメリカを戦争に引き込んだとの議論が盛んになされたこともあり、アメリカ国民はヨーロッパの戦争に関わることに極端な警戒心を持つようになっていた。各種の世論調査でも、ヒトラーやナチスに対する嫌悪感や反発は見られたものの、ドイツ国民全体をナチスと同一のものと考えて敵対視するような兆候は見られなかった。ヒトラーに反感を抱き、イギリスに同情的な一部の国民の間でさえ、参戦するというのは極端で過激な意見だった。アメリカの公式な立場は中立で、1937年に改定された中立法では、いかなる交戦国に対しても武器の供給を禁止されており、交戦国への融資や信用貸付も禁止、さらに交戦国の船にアメリカ人が乗船することも禁じられていた。この中立法により、イギリスは兵器はおろか、金すらアメリカから借りることが出来なかった。
またアメリカには孤立主義や敗北主義が蔓延していた。とりわけ1940年6月にヒトラーがフランスを征服した後は、イギリスの敗北は時間の問題であるという見方が支配的になっており、敗者の側について参戦しよう、などと考えるアメリカ人はほとんどいなかった。さらにこの考えは、親ナチス派による巧妙なプロパガンダにより、さらに勢いを増していた。ナチスのスパイたちが、アメリカの世論をさらに孤立主義・中立主義の方向に引っ張ろうと暗躍し、親ナチス派の財界人たちもそれに協力した。
1940年5月、アメリカ商工会議所のジェームス・ケンパー会長は、今日のアメリカ経済が抱える最大の関心事は、外国の戦争に巻き込まれないことで、戦地にアメリカの若者を送り込むことに断固反対すると発言した。この発言は米独貿易委員会の会報に掲載されたが、この団体は中立主義の立場をアピールし続けた。団体役員の顔触れを見ると、IGファルベン社の役員イルクナー、GM副社長のムーニー、名誉会長はハンブルク・アメリカ汽船会社のアメリカ側代表メイヤーなど。この委員会は親ナチス派財界人の集まりで、表面的にはドイツとの輸出入業に携わるアメリカ財界人たちの懇談の場だったが、実際は親ナチスの宣伝組織として機能していた。
また「経済の平和」を旗印に掲げて1939年11月にパリで産声を上げた経済平和委員会も、アメリカの親ドイツ派財界人たちが中心となって作った組織、委員長にはIBM社のワトソン社長が就任し、副委員長の一人にロックフェラー財団傘下のチェース・ナショナル銀行のオルドリッジ頭取が就任した。IBMのパンチカード選別システムはユダヤ人をシステマティックに処分することに貢献、IBMにとってアメリカ市場に次いで二番目に重要な顧客で、ワトソン社長は、委員会を通じてドイツに対する経済的宥和を唱えた。経済平和委員会は、ドイツとの戦争を避けるために、しきりに平和のメッセージをアメリカ国民に流していた。
アメリカで活動したナチスの宣伝組織で、忘れてならない組織が」三つあった、と菅原氏。大西洋横断ニュース・サービス、ドイツ情報図書館とドイツ鉄道情報局の三つ。大西洋横断ニュース・サービスは、ドイツ外務省が考案し実際には宣伝省が運営した通信社で、アメリカではマンフレッド・ツァップ博士の指揮下に置かれ、アメリカ国内にあるドイツ大使館や領事館で収集された情報をもとに、ドイツのための宣伝を広めるのが使命だった。そして全米のドイツ領事館、ドイツ語新聞やアメリカの民間人などに幅広く情報を配信していた。この三つのプロパガンダ組織は、他の組織と連携し、ナチスの宣伝を広めた。
アメリカ第一委員会は、最も有名でパワフルな孤立主義者の組織であった。エール大学の二人の学生によって組織されたこの団体は、全国規模の大集会を組織し、アメリカをヨーロッパのごたごたに巻き込まれないよう、精力的に活動を行った。この看板として全国を遊説したのが、飛行家チャールズ・リンドバーグであった。大西洋横断無着陸飛行に成功し、一躍世界の英雄になったリンドバーグは、強硬な孤立主義者で、親ナチスでもあった。リンドバーグはドイツ空軍は世界一強いと信じて疑わないドイツ・ファンでもあった。ヨーロッパの戦争が激しさを増してくると、リンドバーグの演説も過激になり、アメリカの中立を守るためにルーズベルト政権に強烈な批判を加えていった。1941年9月の演説で「アメリカを戦争に引き込もうとしている勢力が三つある。それはイギリス人とユダヤ人とルーズベルト政権だ」と。リンドバーグのこうした発言はアメリカの世論形成にも大きな影響を与えた。
更に、数多くの反戦・平和団体までがナチスや親ナチス派企業によって密かに支援を受けていた。ある団体は、戦争反対のスローガンを高々と掲げて市民運動を展開し、女性や子供が戦争によって無残にも被害に遭う様子を写真入りのパンフレットにメッセージが記載されていた。運動員の多くは戦争を心から憎む誠実な市民だったに違いないが、しかし彼らの活動資金はIGファンベル社から出ていた。
1940年中頃までのアメリカは、とてもイギリスを助けて参戦できるような態勢にはなかった。中立法で法的に中立を守れなければならなかったし、何より孤立主義が蔓延していた。さらにそこ孤立主義的傾向は、ヒトラーのエージェントや親ナチス派財界による巧みな宣伝工作により、さらに強められていた。しかしアメリカからの援助なしには、イギリスは戦争に勝つことは出来ない。そこでチャーチルは、アメリカを戦争に引き込むために大掛かりな工作を行うことを決意した、と菅原出著「アメリカはなぜヒトラーを必要としたか」の佳境に入る。