長いことテレビを全く見ない生活をしているので最近はどんなアニメが流行っているのかあまり知らなかったのですが、ちょっと前にXで「葬送のフリーレン」が面白いという投稿を見つけて興味を持ちました。

 

世界最大のアニメ情報ランキングサイトであるMyAnimeListで、それまでずっとトップであった「鋼の錬金術師」を抜いてトップに躍り出て今もトップであり続けているそうで、世界的に非常に人気が高いことが伺われます。テレビでのオンエアは昨年から今年前半でとりあえず終了したのですが、アマゾンプライムで全28話が見られるので見てみました。

 

最近は流行りのアニメにいまいち関心を持てず、ちょっと前に流行った「鬼滅の刃」シリーズもあまり印象に残らず、最後に関心をもったのが「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」かなぁという位。最近は時代に取り残されている感がありますねぇ。

 

「葬送のフリーレン」、良かったです。

最初は葬送という言葉が先頭につくアニメってどうなの?と思ったですが、でもアニメを見てなるほどと思いました。そして、このようなアニメが世界的な人気になることに驚きました。

 

一言でいえば冒険ファンタジーで、主人公のフリーレンは悠久の時を生きるエルフ族なのですが、彼女が関わる人間の寿命は短く、幾つもの別れを繰り返して生きていくことに無感動になった彼女がふとしたきっかけで人々の思いに興味を持ち、再び冒険の旅に出るという話です。

 

私がこのアニメが好きになった一番の要因は、やはり絵と音楽の美しさですかねぇ。登場人物の絵柄もとても好きですね。それってやっぱりアニメにとって重要なことですよね。

 

フリーレンはほんとうは偉大な魔法使いなのですが、あまりに長生きなので、かつては称えられた自らの業績もやがて忘れ去られていきます。彼女はそのことを悲しむでもなく、そういうものだと受け入れます。そして一見くだらない未知の魔法を知ることにこの上ない喜びを感じていて、そんな魔法や魔道具を収集することにこだわり、まわりの者をあきれさせます。

 

ネタばれになっちゃうので具体的なストーリーは省略しますが、このアニメがちょっと珍しい感じがするのは、普通のアニメが結局は「なりゆくこと」であるのに、このアニメはちょっと違うからかな?

 

生と死の視点が交錯するというのでしょうか。でもそれは、私にとっては何だかとても懐かしい感じがするのです。

「優美」と「死」とは互いに追いつ追われつしている。―街頭の人々のように、―落葉を促す新芽のように、―今日を追いやる明日のように、それは絶えず回帰している。

 

少年愛の美学(稲垣足穂)

若い人がこういう世界観を好むのがちょっと意外です。時代が変わったということでしょうか。私みたいに終活を考えてもおかしくない人にとっては味わい深いものですけどねぇ。

 

 

カスタネダ(即ちドン・ファン)はかつて次のように言いました。

もし戦士が自分の受けた全ての親切にお返しをしたくても、特に彼の支払いを受け取る相手がいないのなら、彼は人間の精神に支払うことができる。それはいつもとても小口の口座であり、それに支払うものが何であろうと、それは十分以上のものであるのだ。

 

If a warrior wants to pay back for all the favors he has received, and he has no one in particular to address his payment to, he can address it to the spirit of man. That’s always a very small account, and whatever one puts in it is more than enough.

 

The Wheel of Time  P163

葬送のフリーレンを見てこの言葉を思い出したです。

昨年末だったか、ある氣功の会に参加したとき、食事で隣の席になった、以前インドのアンマの許で5年暮らしていたという女性に来年4月にヒンドゥー教の聖者が来日するという話を聞いたことがありました。私は正直に言って現代インドの宗教事情に全く疎いので、その聖者の名前を聞いても覚えられませんでした。今年に入ってその聖者の名前が分かりイベントサイトを教えてもらったので2月頃に参加申し込みしました。その聖者の名前はパラマハンサ・ヴィシュワナンダ師と言います。

 

で、昨日がその東京でのイベント、ダルシャン2024@東京の日でした。私はインド系のイベントにはたぶん今まで一度も参加したことがなかったので、会場に入ったときその雰囲気に圧倒されました。インドの民族衣装を羽織った日本人や欧米人で溢れていたからです。私は事前に申し込みをしておきましたが、それはあまり関係なくて当日直接参加でも問題ないみたいでした。細かいことはあまり問わない緩さがなかなか気に入りました。無料ですし。とにかくひとりでも多くの人にグルジのダルシャンを受けてもらいたいという感じでした。

 

会場の雰囲気はとても好ましく思いました。私のすぐ近くに銀髪碧眼の可愛い女の子達が座ってたからかもしれません照れ私は夜の部に申し込んだのですが、昼の部のダルシャンがまだ終わっていなかったので、ヴィシュワナンダ師が通路を巡ってみんなにダルシャンを授けている様子が観察できました。

 

私はダルシャンって言葉は聞いたことはあるのですが、実際にはどうするんだろうと思っていました。そのすぐその後に私も受けるわけですしね。で、ひとりひとり相対して師が相手の眼を暫くの間見つめます。その後、師が少しうなずいて手をちょっと挙げて終わったことを知らせます。ただ、何人かにひとりは、師は見つめたあとに何か話かけて相手の頭に手を当てることがありました。たぶん以前もダルシャンを受けたことがある人なんだろうなと思っていました。

 

昼の部のひとが終わると、師は舞台の上に設置されている座に座り、参加者は舞台に上って師の前に立ってダルシャンを受けるやり方になりました。順番に並んで待つのですが、師の前に6~7人が並んで、順番にダルシャンを授けていきます。その後のひとはその後ろに並びますが、ダルシャンが終わるとすぐに抜けて、後ろの人がその位置に入ります。

 

ちょうど私が最前列の左端に入ったとき、右端でダルシャンを受けていたインド人ぽい男性がヴィシュワナンダ師と話しをしていました。私は左端でしたので、そのあと師が右から順番にダルシャンを授けている間、他の人のダルシャンを観察することができました。途中でひとりのおばさんのとき、師は手招きして何か話をしていました。このへんからちょっと緊張してしまったのですが、いよいよ私の番になりました。私は禅者なので無心でヴィシュワナンダ師の眼を見つめました。すると師は微笑んで、こっちへ来いと手招きしたので、ギクッとしました。私はこの喧噪(キールタンていうのかな)で師の言葉(たぶん英語)を聞き取ることができるか疑問だったからです。案の定、師は何かを話したのですが、緊張もあって全然耳に入ってこないガーンショボーンとりあえずわからないからYESとか言ってみたら、さらに何かを言われたのですが、分からず、すると頭に手を置いたような感触がありました。それで、私のダルシャンは終わりました。うーん、どういう意味だったんだろう。

 

ヴィシュワナンダ師はモーリシャス島出身で、ドイツ在住みたいですね。私は先入観を持たないために何も調べずに臨んだのですがよかったのかなぁ。ヴィシュワナンダ師は優しそうな雰囲気でしたね。私はとても好もしく思いました。ただ、何かを感じたかと言われると今のところは何も。。と言うしかありません。今後は分かりませんが。

 

このあと長野、長崎、大阪で4月14日までダルシャンが開催されるそうなので、興味のある方は参加されたら如何でしょうか。ドネーションを強要されることもありませんし、会場の雰囲気もとても良かったです。

 

kindle unlimitedにラマナ・マハルシの本がたくさん登録されていたので、前回紹介したヨーガ・ヴァーシシュタに続いて読んでみました。私はラマナ・マハルシは名前だけは昔から知っていました。(佐保田鶴治さんのヨーガスートラの解説本に写真が載っていたのを見たのが最初でしょうか?)でも、彼に関する本を一冊も読んだことがなかったので、今回初めて読んだのですが、非常に面白かった。「ラマナ・マハルシとの対話」という本ですが、第一巻は読み終わり、今、第二巻を読んでる途中です。

 

私も禅や非二元論については素人じゃない照れのでその手のいろんな知識を貯めこんでます。そのうえで、今まで漠然と考えてきたことが、ひとつに収束していくような感じを受けました。やはりそうなのかっていう感じですね。

 

ラマナ・マハルシは不二一元以外はバッサリと切り捨てているのかと思ったら、必ずしもそうではないんですね。それがちょっと意外でした。いわゆる対機説法というんでしょうか、対話する人の境涯に応じて、呼吸法をすすめたり、瞑想をすすめたり、ヨーガをすすめたりしてるんですね。アドヴァイタじゃなくて、サーンキヤ学派的な説明をしたりすることもあるみたいだし。プラーナとかクンダリニーとかいう言葉も出てきます。ただ、それらの修練も結局は真我実現のための手段なのだという立場ですけどね。

 

あと、昨今の非二元で悟っちゃった系の人達のように、必ずしも修練を否定はしてないんですね。やはり真我実現には努力が必要だという立場のようです。我々は既に真我ではあるのだけれど、それに気が付くためには、我々が知覚している世界を手放す努力が必要であると言っています。

 

以前、ひたすら坐禅で無字に明け暮れていたとき、独参で御師家から「どうわかった?」と問われて返答に窮し、「どうしてもわかりません・・」と思わず云ってしまったとき、「わかりませんと言っているのは誰なんだ?」と逆に問われたことがあったんですが、ラマナ・マハルシも質問者に対して全く同じ問いを発しているのを読んで、なんだか感慨深かかったです。

 

知覚には3つの様相があって、①覚醒時の知覚、②夢見の知覚、③熟睡時の知覚に分類されるのですが、①と②は自我という主体とその対象があるので無明であるが、③の場合は自我はなく、したがってその対象である世界もないから、無明ではないということを繰り返し言っています。しかし③の場合も知覚はなくなったのではなくて、真我に溶け込んでしまった状態なのだという表現をしています。そしてその3つの様相には基底となるトゥリーヤという超意識状態があるのだと言うんですね。トゥリーヤにとどまることがニルヴィカルパ・サマーディであり、真我としてあることなのですね。ニルヴィカルパ・サマーディに21日の間とどまるとこの世界に戻ってこれなくなるとラーマクリシュナは言ってましたが、ラマナ・マハルシは千年の間でもニルヴィカルパ・サマーディにとどまることは可能ではないかと言ってます。

 

昨今の悟っちゃった系の人達も、もしかしたらニルヴィカルパ・サマーディに一瞬でも達したのかもしれませんが、それを維持しているとは思えないですよね(分かりませんけど。。)、ということは死んだら輪廻の環にまた巻き込まれてしまう可能性大っていうことです。まあ、それが悪いって訳でもないんですが、ヨーガ・ヴァーシシュタを読んでると、偉大な聖者が妖精に恋をしてしまったために、世界が何回も生成消滅を繰り返す間、あらゆる生命体に輪廻して転生を繰り返してしまった話とかあるですからねぇ。せっかく輪廻の環を脱出できる可能性を掴んだなら、もうちょっと頑張ってみるのもありじゃないでしょうか照れ

 

心に刻まれた印象などの精神的傾向はサンスカーラと言います。ゴエンカ師のヴィパッサナー瞑想合宿でも言ってましたが、それこそが輪廻の原因となるものなのです。いくつもの過去世で強いサンスカーラを蓄積した場合、今世においてそれが発現することがあります。早熟な天才ってみんなそうなんじゃないかな。

 

つい先日、Youtubeを見てたら8歳の少女バイオリニストのコンテストのときの動画が推奨されてたので見てみたのですが、その演奏に驚愕しました。たしかにクラシックの演奏家には早熟の天才が時々現れますね。それにしても日本人ってクラシック音楽に強いんですね。

 

Химари Йошимура 吉村妃鞠

 

私が昔々京王線の仙川ってところに住んでたとき、近くに桐朋音大があって、ここは小澤征爾が出たことで有名だったんですが、たしかその年の卒業生だったか、世界三大音楽コンクールの一つであったエリザベート王妃国際音楽コンクールで堀米ゆず子さんっていうヴァイオリニストが優勝したんです。日本人で優勝したのは初めてだったと思ったです。

チャイコフスキー国際コンクールにはまだ日本人優勝者がいなかったですけど、その後2人も優勝者が出たんですねぇ。最近調べて知ったんですが。。堀米ゆず子さんってベルギー在住なんですね。知らなかった。。そうそう、話しは戻って、吉村妃鞠さんの両親が桐朋音大出身だということで思い出したんですけどね。