それにしても、なぜこの物語は、これほど背筋を寒くさせるのだろうか。
カミナ ワ族の民話は、全部で十一編が紹介されていたが、九番目の『憑依《ひようい》』は最も地味な部類である。ほかの話はいずれも、熱帯特有の大らかな誇張と破天荒なイメージとに満ちていた。動物や死者が口をきくのはもちろんのこと、れこうべが転がりながら追いかけてきたり、女の顔にワシの翼と蛇の胴体を持った怪物が、突然舞い降りてきて、インディオの子供をさらっていったりする。
その中にあって、『憑依』では、例外的と言っていいほど超自然的な要素が排除されていた。兄弟が湿った森の中で出会った人々にしても、はっきりと『森の精』だったと示されているわけではないし、兄が『悪魔の猿』に会う場面も、弟が、夜、遠目に見て、そう解釈するだけである。結局、村人たちは、弟から聞いた話を鵜呑《うの》みにして兄を殺す……。
この 話は、もしかすると、昔、実際に起こった事件の記録なのかもしれない。嫌な想像が早苗の頭をかすめた。もし、兄か弟のどちらかが何らかの妄想性の精神疾患に罹《かか》っていたとすれば、兄が何かに『取り憑かれた』と村人たちから誤解されても不思議はないし、そのために、私刑《リンチ》に遭う可能性だってあるだろう。
そ柏傲灣 う考えると、最初はただの民話として読んでいたテキストは、かなり陰惨な様相を呈してきた。だが、自分がこの話を読んで衝撃を受けたのは、それとはまったく別の理由からである。
『憑依』については、童話や小説などの分析で有名な心理学者の解説が寄せられていた。心理学者もやはり、この話に最も興味を引かれたらしかったが、彼の見解は、早苗とはかなり異なっていた。
心理学者は、未開社会に典型的に存在する、『悪の憑依』の意味について説いていた。ユング心理学では、『憑依』とは、人格が|神がかり《ヌミノース》的な元型イメージに取り込まれてしまった状態だと考えられているらしい。
心理 学者は、兄弟が村から離れて住んでいたことに着目していた。多くの未開社会で孤独がタブーとされているのは、人を悪に取り憑かれやすくするためだという。他者との生き生きとした交流を遮断されたとき、人は、ゆっくりとした非人間化の過程を辿《たど》る。