天秤座満月。

ノード軸は私のASC(天王星と合)-DSCとぴったり重なり。

火星は私のドラゴンテイルと重なっていた。

木星と海王星の合は、私のASC(天王星と合)とトライン。

 

今日は無性に涙が溢れる日でしたが、

満月と共に、過去の悲しみは浄化されたようです。

 

 

2022年4月17日のTwitter

 

 

 

2021年4月24日の記事

今朝、久しぶりに夢に、18歳の時憧れていた予備校の先輩が出てきました。

 

彼はお寺の後継ぎで、私より3つ上の浪人生だったのですが、当時、生徒のほとんどが早稲田や慶應などの私立大学や難関国公立の四大に進学するエスカレート式の中高一貫校に通っていた私は、

 

  • 自律神経の乱れによる倦怠感(起きたくても身体を起こせない)
  • 鬱症状(家族には怠けていると見なされていた)
  • 中学からの電車通学で受けた痴漢の被害や他人からの視線恐怖(田舎で高身長は珍しかった)による強度の赤面症
  • 金縛りや幽体離脱など謎の霊障

 

などに悩まされて、まともに勉強ができない状態でした。

 

見かねた両親は、私の大学への進学を半ば諦め、「もしこのまま回復しなければ高校卒業後、働きに出させるしかない」と思っていたそうです。

 

中高一貫の私立に通わせてもらっていましたが、家庭は至って中流。兄弟は三人でしたので、

毎日の生活は非常に質素なものでした。中学以降、家族でレジャー的なものを楽しんだ記憶がほとんどありません。

父は、私の中学入学式の直前に緊急入院し、大手術をしました。その時から、見た目は分かりませんが、第一級の身体障害者です。

 

両親は、私が小さい頃からずっと絵を描くことが得意で、心身は不調ながらも音楽やファッションに触れている時は明るく希望に満ちた状態であるのを見て、「美大を目指す方向へ転換させよう」としてくれました。美大はお金がかかります。

それなのに、なんとか娘を立ち直らせようとしてくれていたのです。

 

私は服飾の専門学校へ行きたかったのですが、父は「専門学校へ行くなら就職しろ」と許してくれませんでしたので、「美大へ行ってから服飾関係に就職できたら良いかな」くらいの甘い考えで、両親の期待に応えようと高校三年生の夏から、美大を目指す予備校に通い始めました。

 

両親は、教育大の美術学科へ行かせたかったようで、そこを目指すコースに混ざってみたこともありましたが、非常につまらなくて「絶対嫌」と思いました。

その後、ただモノクロのデッサンだけやっていれば受けられる大学もあるという、彫刻学科コースに入りました。飾らない素敵な人たちが一杯で、景色が急にカラフルに見えたのを覚えています。

 

そこで出会ったのがその先輩です。鳥籠の外の自由な世界に飛び出して、初めて目にした眩しい存在。

ジュディマリのTAKUYAみたいな風貌で、髪の毛は金髪(時にピンク)、ジャージに破れたデニム、足元は厚底のROBOTという高価なブランド靴を履いていました。

お寺の息子という渋さに加え、パンキッシュで型破りな出で立ち、そこに隠せない裕福な育ちと上品さ。

そして、学校は学力がお世辞にも良いと言えない悪くて有名な高校、三浪でも悲観的でなく楽しんで生きている姿。

 

私とは真逆な世界に生きる彼は、私にとって初めて出会う、

自由な感性のまま生きている憧れの存在でした。

 

その先輩は私と同じ年に無事、目指していた関東の美大に合格し、同年にその予備校の学科から関東へ出たのは、私を含めて三人でした。

 

その後、大学生になってからも何度か会ったりはしましたが、私がまだ精神的に不安定で幼く、恋愛経験が皆無だったのと、高校生の頃から引きずっていた心身の不調が完全に回復していない状態でしたので、少し残念な感じで関係は終わってしまいました。

 

なぜか、この映画を見て、その頃の記憶を振り返るような流れになりました。

 

 

過去の思い出を振り返り投稿しよう

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私のもうひとつの稼業である執筆は、私の名前で表に出ることはありません。

完全に裏方の作業です。それでも、魂の深い部分での癒しや浄化を一部で担っているような気持ちにさせていただいています。そういったお仕事に携われていることに、深く感謝しています。

 

今週末は震災についての原稿を書いていました。

その作業中はずっと、韓国のセウォル号事件の犠牲者に向けて書かれたと言われる、BTSの『Spring Day』が頭の中で再生されていました。

 

この歌詞は、一瞬にして消えてしまった無数の魂、そして突然訪れた別れを受け止め生きていかなければならない家族を、「また会えるから」「必ず春は来るから」と励まし、慰めています。

 

この曲に込められたエネルギーには、そういった二度と元に戻らない現実、様々なケースにおける「死」を迎え、深い悲しみを受け止め前に進まなければならない人たちの、言葉にならない感情を涙にかえて解放してくれる効果があるように感じます。

 

突然の深い傷や悲しみは、決して消えることはないけれど、

(消えることは亡くした誰かを忘れてしまうことであり、忘れることは本意ではないから)

長い歳月をかけて、少しずつ美しい思い出だけを残して受け止めていくことができます。

 

音楽は、人の愛は、血縁関係の誰かや近親者ではなく、

通りすがりの誰かや、遠い異国のアイドルのような姿で、ふと心を和ませ癒してくれるものだと、そのように思います。

 

 

 

 

 TODAY'S
 
ゾロ目好きな人にはソワソワする日

 

次は約200年先の2222年2月2日まで、2のゾロ目の日はやってこないらしい。

22:22にはゾロ目歓喜のツイートがたくさんなされるんだろうな?

 

そんな2022年2月22日を記念して、これまでに起きた私の不思議な体験をお話ししたいと思います。

おそらく20年以上前の1999年あたりの、あの頃から、憑いていたんだろうなとしか思えない、悲しい女の人の霊とか、そういう話も出てきます。

 

苦手な方はスルーしてくださいね。

 

 

 プロローグ

 

私がこの道に入る前、スピリチュアルな世界に目を向けるきっかけになった人物がいます。

 

その人物との出会いは、何というか。至福と絶望が一緒になったような。私にとって衝撃的で人生の半分くらいを占めているのです。

 

前半は、その人物と出会うことになった場所へ辿り着くまでのお話をしようと思います。

 

 

 中学生時代(思春期の霊障、そして心身の分離)

 

思春期から目に見えないものの存在を感じたり、不調をきたしたり、という経験をしながらも、そういったものに影響されたり惑わされたりするのは「心が弱いから」というスパルタ教育を受けていましたので、不思議な体験を話したり共感できたりする友達はいませんでした。

 

受験戦争に勝ち抜き県内で共学ではトップの中高一貫校に通い、学年でトップクラスの成績の女子が集まる運動部に所属していましたから、日常会話ですら家族や友人と楽しむ余裕もなく、往復3時間ほどかけて通学するのがやっとの日々でした。

 

実は、私立中学への合格がわかって程なくして、父が大きな手術をして家庭が荒れました。あと2週間、発見が遅かったら急死していたかもしれない状態でした。


これまで平和で豊かだった暮らしが急に荒みました。ほんの僅かな期間ですが、母が宗教に縋った時期もありました。

 

ただ、自分の心と体が分離していくようなそんな感じの思春期を過ごしました。

 

 

 高校生時代(独り立ちしようとした矢先)

 

高校生になれば自由に遊べる。だから中学の時だけは、我慢していよう。

 

なぜか「高校生になれば大人。自己責任の範囲で生きたいように生きられる。」と思い込んでいた私は、高校にエスカレーター式に上がると同時に、勉強をしなくなります。

 

ちょうど高校一年生の時に、全国誌のファッションスナップに掲載されたこともあり、ファッション業界への憧れが強まりました。世の中はスーパーモデルブーム。リンダ・エバンジェリスタやナオミ・キャンベル、ケイト・モスなどが筆頭していた時代です。

 

いわゆる赤文字系のファッション誌にはいっさい興味がなく、どちらかというとハイファッション、モード、DCブランドなどに傾倒していきました。

田舎の高校生でそのようなファッションに興味がある子は珍しく、かなり浮いた存在だったと思います。

 

ただ、高校からは高校受験をくぐり抜け、外部から途中入学をしてくる子が一定数いました。家が裕福で街の方から通ってくる垢抜けた子が多く、勉強もプライベートも充実した生活をしてきたであろう様子が、滲み出ていました。


そんな子たちが憧れでもあり、羨ましくもありました。

決定的な格差を感じました。

 

高校2年生くらいになると、男女交際などが活発なグループが出てきます。

香水をつけたり、他校の派手なグループと関わったり、そんな人たちが増えてきました。

 

 

 心が瀕死のサイン

 

遊び始めた私を危険視し、親が激しく監視・管理し始めます。

許されたバイトは、夏季の新聞配達のみ。そして、母親にはポケベルを持ちルーズソックスを履いているだけで、「援助交際をしているのでは?」とまで言われました。化粧や朝シャンをするだけで、怒られました。

 

ちょうどその頃から、私はPMS(涙が止まらなくなる)、抑うつ、身体が重くて動かない、やっとの思いで外に出ると赤面症などの症状が出てきます。

 

自分の意思ではコントロールできない症状でした。外に出るのが嫌になりました。電車の中も嫌いでした。思い出せば、中学生の頃、毎朝のように痴漢にあっていました。毎朝、1時間に3本しか無い電車に乗って、始業時間に間に合うように通うのが大きな負担になっていました。

 

親からすれば、症状として急に始まったように見えたかもしれません。

しかし、自分の心を支える思い出や感動の体験が欠如し、ただ、勉強を詰め込み成績を競う毎日を過ごしてきた私は、思春期を迎え、自分を「魅力的で自信に溢れた存在」として受け止めることなどできませんでした。

 

かなり深刻な状況に、親は戸惑い、何とか厳しく鞭打つことで立ち直らせようとします。

 

 

続く…

 

 

3〜4年前の自分は、思い出したくないことが一杯である。

正直、精神的に参っていたし、受け入れたくない現実が山のように押し寄せてきていた。

 

今思い出しても、○にたくなるほどである。

その時とった行動も、見い出していた希望も、本当に「どうかしていた」。

 

しかし、その過程がなければ今の私はいない。

問題は特に解決もせず、改善もせず、ただ私の受け入れ方や捉え方が少し変わっただけ。

 

夢みたいなことは起きないし、奇跡も起こりはしない。

人生とは、過去世の自分の続きを生きるだけである。

 

やり残したことを片づけ、返しきれなかった恩や負債を返していくだけである。

そこを乗り越えたら、新しい世界が見えるのかもしれない。

 

そうやって、自分を騙し騙し、生きていけばいい。

本当に喪ってはいけないもの、明け渡してはいけない領域だけ守れればいい。

 

どうせなら楽しみながら、負の因縁を昇華させていこうじゃないか。

 

人間なんて、ただの意地汚い生き物なのだから。

闇や病みを野放しにしては、この世を去れません。

 

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