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銀河カワウソのブログ

☆果て無しのハテナ・カワウソ宇宙雑感日記☆

こんにちはカワウソです☆

 

対等ということのメッセージを入力している時に私が思ったことです

 

「あんたら沢山の宇宙人達の祖先が遠い過去の中で地球人の遺伝子組み換えをおこない不当支配を続けてきたんとちゃうんか~い!

あんたらもツケを払わんか~い!

“今の貴方達にとって全く不必要な又雑音にしかならない事柄・・・例えば「我々がどこの星から来た」等や宇宙船の写真等の提示を行うことは一切無いと思っていただきたい”

どの口が言っとんじゃ~い!

そんな硬いこと言わんでもええやんか

あんたらのテクノロジーを盗んで銀河を征服することなんてないから、無理やから安心しておくれやす

空に宇宙船ちらつかせんでええから

たまには宇宙船に乗せてくれや!

大宇宙遠足や!みんな乗りたがってるんや!

この肉体で宇宙旅行がしたいんや!

沢山のチャネラーが何々星人からのメッセージとか言って受信しとるやないか~い!」

 

まあ古いメッセージであるので今私が突っ込むこと自体おちゃらけですね

アランさん、まさしく正論でございますアセアセ南無ぅ~お願い

 

とくにプレアデス星人達は過去の地球の歴史において地球人に干渉し遺伝子操作をおこない支配してきた因果関係があるのです

 

だから今現在の彼らはその過去のツケを清算する為に地球をアセンションさせるのを創造からの義務として課せられているのです

 

まあ宇宙人達は地球人を諭すために様々な説法という形で助言してくれています

 

釈迦やキリストの説法と同じで、そこから私達がどのように受け止め活かしていけるかは聞き手の自由でありますが活かすも殺すも自分次第であるということですね 感謝、感謝

 

 

今月末に点描曼荼羅ワークショップが私の家から電車で20分ぐらいの場所で開催されるので参加して点描曼荼羅を描きにいってきます♪

 

点描曼荼羅アート師・玲光 Reikouさん作品

 

☆ブログ紹介☆

 

●~点は天からのメッセージ~ 玲光 Reikou

 

 

●∞9次元アクトゥリアン評議会メッセージ

 

medjedさんいつも有難うございますルンルン

 

 

ア・ラン メッセージ

 

レベルについて 
「レベルというものについて考えてみよう。

レベルとは、それについて喜んだり、落胆したりすべきものではない。 

また貴方達の旅の達成はどのレベルを抜いてもあり得ないことであり、それぞれに深い意味が込められているのである。

あなたがもしそのレベルを卒業せず、もっと先のレベルでのレッスンを行ったとしても、それは非常に無駄なしかも異常な危険を伴う遠回りにしかならず、結局は又もとのレベルに戻ってこなくては成らないだろう。 
このような理由から、貴方方の多くの師は「秘密」を実行して来たのだ。
さてこのレベルは、非常に細かく分けられるものであるのだが、ここではその全体を大きく二つに分けてそれぞれ説明することにしよう ・・・・と言うのは、これを読む貴方達の多くが、この二つのレベルの狭間近くにいるからだ。
まずは貴方達がまさに卒業しようとしているレベルについて話してみよう。 
これは旅について又旅の目的地について全く理解を得ていないレベルである。
そのレベルにおいての「目的」はあくまでもエゴレベルに留まり、エゴそのものが何であるかを知ることが無い。そして彼らは無意識の内にエゴを成長させ、又、そのエゴに合わせた環境( 多くの意味において)を整える事に努力の全てを当てるのである。これがそのレベルの有り様であるが、次はこれから貴方達が入っていくことになるレベルについて話してみることにしよう。
そのレベルにおいては、貴方達は旅そのものに対する理解を得、又その目的地にたいする理解を得るようになる。この事は、エゴの正体を知り、それをどのように扱っていくかをはっきりと知ることにつながり、それを実行していくことになるのだが、ここにおいて、努力は全てそれに当てられると言ってもよいと言える。
この努力は、先に話した二つの理解をより深く明確にしていくためのものであり、又、その副産物として、真の感謝の深まりを体感していくことになるだろう。
 簡単にレベルを二つ分けて話してきたが、貴方にもう一度言っておきたいことは、レベルはそれについて喜んだり落胆したりするものでは無いということだ。 もし貴方が自らのレベルに優越の意識を持つのであるならば、それを無限時間の中に置いてみなさい。
そしてもし貴方が自らのレベルに劣等の意識を持つならば、傍らの草を眺め、それが自分に対し劣等の意識を持つ必要があるかどうか、考えてみることだ。」

 謙虚ということについて 
 「理解を得ていないエゴ体に「謙虚」はあり得ない。

もし在るというのであるならば、それはエゴの本質を知識として知っているものが、謙虚に美意識を感じ、相手のものに、又自分自身に対しそれを印象付ける為に演ずる芝居であり、これは真の「謙虚」とは言えない。又、非常に優位に在るものに対し「謙虚にならざるを得ない」であるなら、それは劣等意識以外の何者でもなく、もし、優位に在るものを超えることに成ったとしたら、その意識は即座に消え、その代わりに優越意識が現れるだろう。これも真の謙虚にはなり得ないのである。 
 それでは真の謙虚とはどういうものであるのだろうか。
これも理解の後に副産物として現れるものなのである。
 貴方がエゴ体の正体を知ってしまったら、もうそれを相手に印象付けることにも、又見せびらかすことにも、何の意味も感じなくなる。
 「自分」は真実ありがたいものだが、出来ればさっさと消えて欲しいものであるという状態になるからだ。貴方はそれを錘のように感じ、それを引きずって歩く自らの姿に対し、弱々しく笑うことしか出来なくなる。そしてここに謙虚が生まれる。
 正にこれが真の謙虚なのだ。この謙虚には能動は混ざらない。非常に淡々とした(状態)だ。これについて是非考察してください。

 

平和について

「地球では、何故平和が保たれないのかを考えたことがあるだろうか。

それは貴方達の「平和」が、実際にはエゴ体の「都合」以上の何物でもないからだ。

それは貴方達が何故平和を望むのか、その理由を分析すれば明らかになることなのだが、それが「都合」である以上、「他の都合」に簡単にひっくり返されてしまうのである。

貴方達は平和を望む・・・・それは決して嘘ではない。だがそれは戦争が環境破壊や多くの苦しみや悲しみまた死を呼ぶものであり、そんなものは実際「困る」事だからだ。

これはエゴ体が基本的に持ってしかるべき「都合」だ。

だが貴方達に他に非常に重要だと思われる、しかも現実に直面している「都合」が来ると、それは脆くも崩れ去ってしまう。 

例えば経済だ。経済事情が思わしくない・・・・この程度であれば貴方達は話し合いを持って何とか解決に道を見つけだそうとする。

戦争は危険な賭けであるし、「起こしてはいけないこと」だからだ。

だがそれが決定的に悪化すると、貴方達は話し合いをやめて結局武器を取らざるをえないような状況を作りだすだろう。これが「都合」以上の何であるだろう。

過去に起きた宗教戦争にしても、唯一の神、唯一の真理が二つも三つも在っては「都合」が悪かったのだ。

彼らは偽物を破壊する必要があり、又実際為され、信じられないことだが、それが現代にも及んでいる。

それではもっと個人レベルで話してみよう。

貴方は「私だけは絶対に違う。都合などで殺し合いをする位なら、自殺したほうがましだ。」と思うかもしれない。がしかし残念なことだが、これもその多くは非常に簡単に崩れ去っていくだろう。確かに貴方からは決して人を殺したりはしないだろう。

だが想像力を働かせてご覧なさい。例えば、経済事情のこじれからそれぞれが大偽名分を掲げ、国レベルの戦争を始めたとしよう。貴方はプラカードを掲げ、戦争反対を唱えながら仲間とと共に通りを練り歩くかも知れない。

だがそんな事にはお構い無しに、相手国の空からの攻撃を受けることになるだろう。そしてこのただならぬ事態にはプラカードは及ばないと知り、防御の対策を練らなければいけなくなる。だがそれにも拘らず、やがて殺戮は貴方の最愛の親、子、妻、夫、兄弟にも及ぶことになるだろう。

貴方の深い悲しみは怒りえと変わり、それは戦争そのものというよりは、むしろ直接その人々を殺した相手に向けられる・・・・「許せない」と。

そして相手国の人々も同じ悲しみを受けているであろう事など、同情すら及ばなくなる状態となるのだ。このようにして両国の一部の人間が始めた戦争は、それぞれの国民の間に確実に浸透していく。

消極的な防御に変わり、それが更に戦争の炎を大きくする。

これが貴方がたの多くが辿っていかなければならない過程なのである。

貴方がたの平和は、是非にも「都合」から他のものに変質しなければならない。

変質が無い限り戦争は起り続ける。その良い証拠に地球上に在る国のほとんどが軍を持ち、その時に備えて準備を整えている。

変質は理解からだ。理解以外に変質を起こす方法は無い。

その理解とは、何故生命が存在し、又それが何故輪廻転生によって繰り返されていくのかを知ることだ。」

 

奉仕活動から到達へ

「貴方は奉仕活動からも旅を始めることが出来る。

これについて地球的表現法を用いるならば「愛の旅」と言ったものになるかも知れない・・・・が理解以前に愛と呼ばれるものは「同情」以外に無く、これを正しく言い替えれば「同情の旅」となるだろう。

この旅には理解はあえて必要なく、貴方達の多くがこれに向いていると思われ、又奬めたい旅である。

まずは中心を同情においたエゴレベルの奉仕から入っていくのであるが、この時点でそれから得られるものは、エゴレベルの喜びを含めた体験的知識に留まる。

だが、これを真剣な姿勢で繰り返していくうちに、それは貴方にとって理想的なしかし、非常に努力を必要とする瞑想と成っていくのだ。

これについて説明すると、貴方達の世界には「自己犠牲」という言葉があるが、貴方達は同情を中心に捉え、これを自らに強いて行くことになるのである。

だがもともと貴方自身は個を基本としているエゴ体であって、これはその中において、耐えがたいほどの葛藤を生みだすはずなのだ。

貴方は常にそこから抜け出したいという欲望に駆られるだろう。だが飽く迄中心に留まるのなら、貴方はそこにおいて無意識のうちに集中(自己コントロール)を学ぶことになる。そしてそれは限り無くエゴ体を希薄にしていくことに成り、又、中心を必要としなくなることにもつながる。

そしてついには、中心は消滅する。

貴方はこの時、自らの中に真の意味での「愛の現れ」を体験するだろう。

愛とは、最にも純粋化したエネルギーの本質なのである。さてその後に行われる奉仕は、それまでのものとは異質のものと成っていく。

つまり、それまでの能動体受動体共にエゴ体であったのであるが、それからの能動体は「純粋エネルギー」となり、受動体は「エゴ体以前の存在」となるのである。

ただ今の貴方にはこの状態について想像することすら出来ないのであるが、これは遠い将来必ず到達されるべき過程なのである。そして貴方は今話してきた旅の涯に到達するという意識も無く、到達していくのである。

追伸

この旅を始めようとしている、或いは既に始めている貴方に、これだけは言っておかなければならない。これはあくまでも中心を「同情=(貴方達の愛)」に置かなければならず、何か他のものに置くのであれば、それは貴方のエゴ体を成長させるだけの結果に終わってしまうだろう。」

 

対等ということ

「対等という言葉について話してみたいと思う。

対等は我々の基本的ルールであり、これは決して崩されるべきではない。

これが崩されたときに現れる結果は、徹底依存、又どのような形であれ不当支配である。さて対等が可能な状態を明確にしておかなければならないが、これは両者のレベルが一致し、従って獲得できる能力の範囲が一致した場合と言うことになるだろう。

我々が貴方達の前に姿を現し、交流出来ない理由は単にこの対等の状態が得られないことにあるのだ。

つまり貴方達の多くは依然として理解以前の状態にあり、その結果真の平和の現れを得ていない。これは明日にでも文明の破壊が行われるかもしれない可能性を意味するのであり、もし貴方達の手に、我々のテクノロジーの一部が渡ってしまったとしたら、我々は貴方達に対し、支配、又は強制文明剥奪、ある場合には滅亡させることを余儀なくさせるだろう。

と言うのは、我々のテクノロジーを用いた場合、貴方達の破壊は地球に留まらず、宇宙全体に及ぶことになるからである。地球人全体が理解のレベルに達することで、初めて対等が可能な状態を得ることができるのである。

さて、視点を変え、今度は現在の我々と貴方達との関わりについて話してみよう。

貴方達は既にその行動範囲を地球以外の天体にまで広げている。

これは正に、精神レベルにおいても「地球の人」から「宇宙の人」に脱皮する時期が来ている事を意味しているのだが、しかしこれは生命の進化の過程において最にも危険な時期であるとも言えるのである。

我々は「宇宙の人」と言う立場から、このような時期を迎えた天体の人々を観察する必要性を認めており、又彼らが「宇宙の人」に脱皮する為の絶対条件である「理解」を促す事を目的とした奉仕を行っているのである。

だがこの奉仕を行うについて、我々はここにも対等と言うルールを基本に置くべきであると考える。

これは貴方達の獲得可能な範囲を超えたテクノロジー、又は知識の提示を最低限に抑えることを意味することになるのであるが、貴方達はこの対等を余り喜ばないようである。

これはそれまでの貴方達の習慣がそうそうさせるのであろうが、そのようなものの提示は、或る者達が何らかの目的を持って教えを貴方達に受け入れさせる時に必要なものなのである。

だが我々が行っているものは、飽く迄「促し」であり、貴方達が主体である以上、そこにある意味での武器は一切必要ないのである。

従って我々は、今の貴方達にとって全く不必要な又雑音にしかならない事柄・・・例えば「我々がどこの星から来た」等や宇宙船の写真等の提示を行うことは一切無いと思っていただきたい」

 

戒律或いは義務について

「戒律或いは義務について、我々の世界には戒律或いは義務という言葉は存在しない。

我々はただ無限の中に自らを置くことで得られる理解に添って道を選択していくだけだ。

それは、ごく自然なことであり、そこには「なさねばならないこと、そうならねばならないこと」など一つも無い。

植物は、戒律或いは義務という言葉など知らずに種子を作る。

小鳥も又、そのような言葉など知らずに、雛に餌を運ぶ。

それは明るく照らし出された道であり、その道を行くのは本当にごく自然なことであるのだ。

戒律或いは義務とは、方向指示のようなものであり、貴方は道を間違えないようにそれに従う。けれども貴方は元々盲目ではないし、その道が真に明るく照らし出されさえすれば踏み外すこと無く、ごく当たり前に歩みを進めることが出来るのだ。

戒律或いは義務は、暗闇の中にいる貴方を何処かに導こうという意図から与えられるもの、しかし実際には、それは貴方自身の中において、どのような解決にもなりえない。

貴方に必要なのは導きではなく、理解であるという光であるのだ。」

                                ア・ラン

引用元

「水瓶座讃歌」「となり組回覧板」 

FUJI日本 機関誌

「大禊ぎ」文園出版 

著者 大高良哉・谷口祐司

 

次回に続く

 

読んでいただき有難うございました ☆感謝、感謝☆