先日、図書館で借りた本「ベストエッセイ」を読みました。
齋藤孝さんがその中で、「言葉がすたれ、その動作がもたらしていた身体感覚が失われると、そこから派生した比喩表現も実感が湧かなくなる」ということを書かれていました。
例えば、<研ぐ>
研ぐといえば、刃物とお米くらいしか思い浮かばないんですが、最近はお米も洗うと言われることが多いそうで。包丁を砥石で研ぐことがなくなってきて(私もしていない
)研ぐという感覚がなくなってきているのかなあと思います。
研ぐという動作がなくなると、<感覚を研ぎ澄ます>とかも実感としてちょっとよく分からなくなってくるんでしょうね。
余計なものが削ぎ落とされていく、そんな感覚すらなくなっていってしまうというと大げさかもしれませんが、ちょっと怖いような、寂しいような、そんな気がしました。
齋藤孝さんがその中で、「言葉がすたれ、その動作がもたらしていた身体感覚が失われると、そこから派生した比喩表現も実感が湧かなくなる」ということを書かれていました。
例えば、<研ぐ>
研ぐといえば、刃物とお米くらいしか思い浮かばないんですが、最近はお米も洗うと言われることが多いそうで。包丁を砥石で研ぐことがなくなってきて(私もしていない
研ぐという動作がなくなると、<感覚を研ぎ澄ます>とかも実感としてちょっとよく分からなくなってくるんでしょうね。
余計なものが削ぎ落とされていく、そんな感覚すらなくなっていってしまうというと大げさかもしれませんが、ちょっと怖いような、寂しいような、そんな気がしました。