教える側、教わる側のヒミツ | ひとりでにわし・神奈川県横須賀市ひとりで庭師をしています

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横須賀市の植木屋庭師 畠山庭園のブログです。冬は奥只見スキー場でオペレーター(圧雪車)。バイクが趣味でninja1000に乗っています。

学習というのは、「何故?」と言う好奇心がなければ学ぶことが出来ないと僕は思います。

職人の世界は基本教えることをしない。体で覚えろ!が基本スタイルだが、技術その前に、その仕事にたいしての精神をわかってないと、ただ間違ったことをやってしまいます。

そういう、「にわか」仕込みの職人が多いような気がします。

何屋さんだかわからない服装で仕事をしたり、言葉遣いや身なりがどうしたものかと。

ラグビーで言えば、ノーサイドを知らないと、対戦相手を敵と言うことで、憎しみを込めてプレイしてしまわないか。僕はそう考えます。

まずはその仕事、学びたい事の精神をわかっていないと、その本質を理解することは難しい。

ですから、「にわか」が現れる。

にわかは、お客様が本能的に見破ります。

あれ、なんか変だな?

やり方が違うような。

本当にいいのかな。

と、言うような。

先ず、教わる側の心構が大前提です。それが儲かるからと言うような、動機が不純であると直ぐにメッキが剥がれていきます。

そう言うことを、僕は父から知らず知らずに学んでいました。

父は大工でしたが、ひとつの理論、美学を持っており、お客様のことを、誰よりも理解し、先回りすること。と、言っていた。

修行時代何をしたか?と一回だけ聞いたことがあり、親方の好きなものは、くっついていれば誰よりもわかる。

それを、言葉で「くれ」といわれる前に用意しておくものだと。


そう言うことが、なるほどと気づくようになったのは最近のことです。

ですから、教えるとは、最所から全てを教えてはいけないものかな?と。

ただ詰め込んでも、一見親切にみえますが、学習者は依存心を育てるだけで、受け身になります。

それは失敗と言う皮肉なことになる。

教わるとは、その興味「何故」「なんで」から始まると思う。


ありがとうございます。