たいせつなひとには、
げんきで、生きて、
きらきら笑っていて欲しいのです。

ことばは、
できれば、
たいせつなひとに、
あいしてることを素直に伝える為に、
あいしてくれたひとに、
たくさんの感謝を伝える為に、
そんで、
自分が精一杯生きて毎日を切り開いていく為に、
できるだけ丁寧に使いたいのです。

からだは、
できれば、
たいせつなひとを、
しっかりとだきしめて、
時にひとりぼっちの痛みを和らげあったりとか、
たいせつなひとや想いを守るその為に、
いつか動けなくなるそのときまで、
だいじに出来たらと思っています。

音楽は、
だれかを笑顔にする力があって、
それはそういった願いが込められているからであって、
すくなくとも、
音楽を作っているひとたちのなかに、
たったひとすじさえも他人を思い遣る気持ちがないことなんて、
うちは、ないと思いたい。


うちらは完全には作られてない。
人間は他の動物と比べても超未熟児で生まれて、
しょっちゅうひどく間違えて、転んで傷ついて、
でもまたなんか見つけて、
死んでしまうまで、とにかく歩くのだ。
泣いたり笑ったりしながら、
とにかくそのときまで、一生懸命生きるのだ。


だけど、
人間がつくった世の中は間違いが間違いを呼んで、
ところどころくるってしまっていて、
たとえば、
音楽や楽器をつかって、
たくさんの「純粋に憧れるこころ」をだまして、洗脳して、
その周りのひとたちまで傷つけてしまうひとがいるのです。
やつらは、
たくさんのひとたちからお金をむしりとってむしゃむしゃ食べて、
たくさんのインチキと痛みをばらまきながらどんどん大きくなって、
今日も涼しい顔をしている。
巧みなまっくろなことばに騙されて、
それまでの人生を否定されながら、
たとえばたくさんのお金をだまし取られて、
たとえば家族との絆を深く傷つけられてなお、
それがしあわせだと、そのさきにこそしあわせがあるのだと、
それがゆたかさであると、
信じているひとが、いるんです。



いや、だけど、
ねえ、
しあわせに生きていくって一体どういうことなんだろう。



だれかに決められることではない。
たとえどんなに近しいひとであっても、
そのひとのしあわせをわたしが決めつけることはできない。
お互いどんなに話し合ったって通じないことも、
ときどき、ある。


音楽が憎しみを作ってしまうなんて、考えたくもなかった。
音楽を使って人と人とをひきちぎることなんて、考えたこともなかった。
凄く悲しいけど、
そんなどうしようもないものが、
ほんとうにこの世の中にはある。

ひとがつくった音楽が、
ついにひとを傷つけた。
そのあと、どうなるんだろう。
うちには、一体何が出来るんだろう。
ずっと考えてる。


ちっぽけすぎる自分のことが悲しくてたまらなくなる。


傷つけずには生きていけないと、
すり切れるほど、
古今東西いろんな作品のなかで歌われてきた。
わかってるつもりでいても、
傷ついたり傷つけたりするのはいやで、
みていられなくて、
なんとか抱きとめようとして、
痛みをこらえられなくて、
やがてその手をはなして、
そおっと「痛くないだけの距離」をとる。

しあわせとふしあわせは、表と裏。
だれかにとってのしあわせが、
だれかにとって身を切るような痛みだったりなんてことは、
よくあることだ。
世界中みんながいっぺんにしあわせになるなんてことは、
もしかしたらやっぱり到底無理なことなのかもしれない。


なにを知ってるんだって言われたら、
なにも知らないかもしれない。


わからないことは、ありすぎる。
全部わかったふりなんてできない。
でも、
全部わかったふりしてるやつが、インチキだってことだけは、わかる。


たいせつなひと、
ちゃんとたいせつだとつたえよう。
たいせつなひとが、
寂しさに惑わされて、
とおくにいってしまわないうちに。


こころから笑い合いたいだけのうちには、
それが正解かどうかなんて、
結局わからんけど。