みなさんこんにちは、
うたうたい秦千香子です。



これは、
例えばのはなしなんだけど、



小さな苗木をいくつもいくつも植えて、
彼らが大きくなって、
例えばいつかそれを切って誰かの家のテーブルになって、
誰かの笑顔のもとになるまで、
例えばそれが山に棲むいきものの家になるまで、
例えば自分が落ちた枝を燃やして暖をとれるようになるまで、
何十年もかかる。

毎日何かを頑張ることは、
毎日自分の中に木を植えてるみたいなことかもしれない。


もしかしてそのうちのいくつかは、
風や雨や気候や、
周りとうまくやっていけないことで、
途中で力尽きてしまったりしまうかもしれない。

でも、
木を植える。

じぶんじしんを、
生き物も暮らせないような、
地滑りばかり起して誰かの日々をぐしゃぐしゃにしてしまうような、
はげたさびしい山にしてしまわないように、
生まれてきてこれまでに、
誰かが植えてくれた木を全て切り倒して空っぽになってしまわないように、
植えた木がいつか何かを暖める術になるように、
植えた木で自分自身と大切な何かを守れるように、
自分で植えた木がいつかだれかの為になる日がくるように、
木を植える。

そう思うと、
自分で選んで生きている今の全部、
頑張っていられる今の全部、
大事に思えそうな気がした。



昨日、石垣りんさんの「地方」という詩を読んでて、
思ったこと。



ことばには、ひとを元気にするちからがあるね。
だれかにもらったことばに、
ときには眠れないくらいに嬉しくなってしまうこともあるし、
立ち上がれないくらいに、笑えなくなるくらいに、傷ついてしまうこともある。
自分でも、ことばの力をよく知っているはずなのだ。

なのに、

「言葉じゃうまく伝えられない」
ってよく言ってしまうのは、
ことばのちからを自分がまだうまく使えていないってことなんだろう。


うちの苗木は、まだちいさいな。
たいせつに育てようと思う。