もう1月以上前のニュースだが、近鉄が阿部野橋駅に高さ300メートルの日本一の高層ビルを建て、大阪の百貨店競争の目玉にするそうだ(2014春完成予定)。構想そのものについてコメントするつもりはないのだが、その巨大な空間の中に音楽ホールがないというのは、「近鉄よ、お前もやはり儲け主義なのか」と嘆息したくなる。
 もっとも、クラシックが(日本、特に大阪で)流行らないのは、聴き手の耳やパトロン不在ということもあるが、その根本には弾き手の(誤った)目的意識にあるのだと思う。本来、音楽は音を学ぶのではなく、音を楽しむことが目的であるのに、日本のクラシックの大半は、お稽古事である。いかに先生に教わった通り弾くか、いかにミスなく技術を披露できるか、ということだけに意識が向いて、一般聴衆を楽しませるというサービス精神が全然ない。そもそも、演奏はナマモノであって、ピアノが違い、ホールが違い、さらにその日の観客層の把握があって、音をホールの隅々までどう響かすかの配慮があって、初めてプロの演奏として成立つのである。舞台は舞台であって、レッスン室ではない。それは芸事の基本である。
 以上は前置き。昨日の奈良「秋篠音楽堂」で聴いた、植田味香子・多賀みずほのラヴェル「ラ・ヴァルス」は、クラシック(それも20世紀のラヴェルである)がこんなにも楽しいものかと体感させてくれる素晴らしい演奏だった。何よりも、演奏が始まった瞬間、聴衆全員が舞台に惹き付けられていくのが分かった。それはテクニック的なことを言えば、二人の息の合かた、ワルツのリズム感、緩急の間、音色の豊かさ、掛け合いの緊迫感、等々ということになるのだろうが、そんなことより、ライブにおいて観客が演奏者の中にのめり込んでいくという、クラシック以外の音楽では当たり前でありながらクラシックではめったに体験出来ない、その体験に対する感動であった。
 事前に勉強した知識によれば、この曲はヨハン・シュトラウスのウィンナーワルツをラヴェルが編曲したものである。そのことが予備知識として与えられていないと、ふつうは何がなんだか分からないということになる(それゆえ、デュオ奏者には敬遠される。じっさい、事前に聴いたアルゲリッチのDVDでは、たしかに迫力満点の素晴らしい演奏なのだが、ウィンナーワルツと言うよりは、我れらが闘争である)。ところが、昨日の演奏は、アルゲリッチほどの「弩迫力」はないが、逆にウィンナーワルツの心地よい調べが底通に流れていることがくっきりと浮かびあがり、聴衆はきっとみな、無意識のうちに、古き19世紀と新しき20世紀の絶妙なアンサンブルを感じ取ったに違いないと思う。
 このコンビは、学生時代にバルトークを弾いて、松方ホールのコンクールでアンサンブル部門の大賞を受賞しているので、きっと相性がいいのであろう。これを機に、ぜひ積極的なデュオ活動をしてもらいたいものだ。マスコミはやってこないだろうが、きっと口コミでクラシック・ファンを獲得していくに違いない。