■2005/02/28 Mon  



 講談社のPR誌「本」3月号の安野光雅氏の表紙絵についたエッセイは、こう始まっている。
「留守番電話に声が残っていた。『それでは一曲歌います』と言ったかと思うと、『灯りをつけましょぼんぽりに……』と歌うのである。そんなことをするのは村松以外にない。……」
 これを読んだとたん、「そう、そんなことをするのは村松さん以外にいないなぁ」と今の生活にかまけて忘れていた人を、懐かしく思い出した。村松武司さんは詩人で編集者だったが、生前、ずっとハンセン病患者に詩を教えに通っていたという。ハンセン病患者の間では有名な人なのだ。「そうした志は絶えて口にすることはなかった」とあるように、当時、ぼくはそんなことはまったく知らなかった。
 出版の仕事をしたくてたまらず、何のコネもなしに何十通もの手紙を書いたが、一番最初に返事をくれたのが村松さんだった。健康診断で結核と診断され、某出版社の内定がフイになったとき、村松さんは皇居が見える都内のホテルに部屋を取ってくれた。少しも嬉しくなかったが、それが彼の出来る精一杯の慰めであることはよく分かった。
 退院後、ぼくは医者の忠告も聞かずに上京し、けっきょく数年間、村松さんと同じ職場で『数理科学』の編集をすることになった。ぼくが彼と一緒に仕事をしていたあの頃も、彼は人知れず草津療養所に通っていたということになる。しかし当時、もしぼくがそのことを知ったとしても、何も変わることはなかっただろう。
 亡くなって十年以上を経て、「ひな祭りの歌」と共にはじめてそのことを知る、そして、それが村松武司という人の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。それは、半世紀を生きてきて始めて味わえる、人生の感動である。